
9班 栗山 義雄 さん
1.そんな時代だった
昭和30・40年代は正に高度経済成長の真っただ中、行け行けドンドンの時代。私は本社管財部において、全国の工場展開を担当し、松下幸之助創業者の「全国各県に松下の工場を最低1つ建設するという1県1工場構想」の下、工場用地取得の為に全国を走り回った良き時代。
各地に新しいナショナルの工場を展開してきた。そしてこうして工場を展開した際には色んな事柄があった。例えば兵庫県のある町に、松下の工場を進出しようとした時、操業後の取引代金の決済時期・方法に関して、大問題が起こりました。
それは、地元から「松下は仕入れ代金や物品代金は毎月末・決済であると言っているがとんでもないことだ、「節気払い」に合わせて貰えないならナショ(ナショナルを略して)の工場誘致には絶対反対だ・・」ということでした。
こんなことが本当ににあったのです。当時その地域では昔からの商取引の慣習として、物品の代金決済は「お盆と年末」の2回のみ、いわゆる「節気払い・つけ払い」があたり前であって、毎月末現金決済という松下電器の取引形態にはとてもついていけないということが理由だったのです。特に農村地域ではこうした古い慣習が根強く残っていたのです。私が小さかった頃も「節気払い」が当たり前で、お盆と正月前にお店の人が集金に来たり、両親がお金を払いに行ったりしていたので、そんなに奇異には感じませんでした。
こうした状況下で地域との折衝の中で時代の変化についてお話しし、松下方式のご理解をいただき、その地域においても新しい商慣習が広がっていったのです。
しかし乍、こうして苦労して展開した各地のパナソニック工場や厚生施設が、近年次々に閉鎖あるいは売却され、その姿を消しつつあります。こうして閉鎖された工場跡や寮の跡地前を時々通りかかると本当に寂しさがこみあげてきます。時代の流れとはこういうものなのかとつくづく考えさせられます。
2.嘘のような本当の話(製造実習初日のハプニング)
私が入社した当時は、導入研修の後すぐに正式配属というのではなく、理系文系に関係なく3か月程製造事業部で「製造実習」という制度がありました。メーカーの社員として物作りを体験することは当然のことであったと思います。
数週間の導入研修のあとすぐに始まった工場での製造実習は、私の場合大阪市淀川区の電熱器事業部塚本工場でした。実習初日人事からの引率はなく、新入社員7人だけで会社から渡された地図を頼りに塚本工場へと向かった。
松下電器の工場だから当然立派な工場だと思い込んでいるので、新しくて大きな工場に着いた。そして守衛さんに「実習に参りました」と言った。守衛さんがけげんな顔で、関係部署に電話をしたようでした。そして守衛さんいわく「今日うちの工場ではそのような予定はない」とのこと。「そんなはずはない、私たち7人は、本社から来たんですよ」と言い張った。そこで守衛さんから「どこの会社ですか?」と聞かれたので、胸を張って答えました、「松下電器です」と。すると、守衛さんは、「松下さんの工場はあちらですヨ」と、すぐ隣の古びた小さな工場を指さしたのです。
我々は、え-ッと仰天した。えらい大恥をかきました。しかもこの大間違いに7人の誰もが気づいていなかったのです。それもそのはず、我々の導入研修では、茨木のテレビ事業部や高槻の電子工業などの大工場ばかりを見てきたので、当然塚本工場も大きくて立派な工場だと思い込んでいたのです。しかしながら、当の塚本工場はまさに古びた町工場そのものだったのです。
実は、私たち新入社員が間違えて入ろうとした大きな工場は、あの、大阪変圧器㈱の真新しい工場だったのです(現在も㈱ダイヘンとして操業しているようです)。
私の長い長い会社勤めは、そんな出来事から始まったのです。
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「創業の森」の創業者銅像の前にて
(会社時代、左から3人目)
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管財部の職場にて
(1967年<S42年>、左から2人目)
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趣味の「鯉つり」の雄姿
(2016年、釣り竿が半月状に)
以上
記事・写真:栗山 義雄
HP作成:宮元
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会員さん登場は、会員さんの退職後のご活躍のご様子を披歴頂くことが多いようですが、今回の栗山先輩のお話のように、「あの頃」のお話しも大変面白く興味深くまるでプチプロジェクトエックスのようで私は好きです。会員の皆様は栗山先輩に勝るとも劣らないエピソードや逸話や武勇伝やここだけの話しをお持ちだと思います。今後もこのような投稿も増えることを期待します。