枚方の神社 第9回 『蹉跎神社』

第9回 『蹉跎神社』

2014/6/5 取材

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 枚方発見神社シリーズの第9回目として市内最南端の「蹉跎神社」を参拝し、取材しました。
 京阪電車本線の光善寺駅で下車し、線路沿いに八尾枚方線を南に600m歩くと神社参道入口の「郷社蹉跎神社」の石標があり、そこから真っ直ぐの緩やかな坂道の蹉跎参道が続きます。少し行くと一の鳥居があり、周りの住宅に取り囲まれるように建ってます。そこからしばらく登って行くと、こんもりとした森に二の鳥居があり、その奥の絵馬堂を兼ねた屋門から80段以上の石段を登りきると、鬱蒼とした木々に囲まれた静寂で神秘的な雰囲気の境内のなかに「蹉跎神社」が鎮座します。正面の拝殿までの両側には幾つもの様々な形の石灯籠が並び、境内の右側には神楽堂、神牛社があり、左側には境内社の皇大神宮・金毘羅神社・春彦神社・稲荷神社が祀られています。
 「蹉跎神社」は蹉跎天満宮、蹉跎山天満宮とも呼ばれ、菅原道真公(天神様)を祭神とし、現在の南北中振、出口、翠香園、その他香里地区を中心とした地域の産土神として蹉跎山に社殿が造営されています。
 少し離れた出口には御旅所があり、御旅所の敷地の奥には本宮の「遥拝所」があります。例祭の日には子供神輿が地区を廻ります。
 今回は二の鳥居のすぐそばの社務所に案内され、宮司の阪本悦子様と氏子責任総代の畠山様から「蹉跎神社」の由緒等のお話を懇切丁寧におききし、その後、神社内をじっくりと案内していただきました。

【蹉跎神社の概要】

所在地 枚方市南中振1丁目7-18 京阪電車 光善寺駅 南東500m 徒歩約 11分
境内の敷地 約 3,000坪
祭神 ・菅原道真公:学問の神、雷神
・境内社・・皇大神宮、春彦神社、金毘羅神社、稲荷神社
創建 ・天暦5年(951年)蹉跎山に社殿を造営し、木像を祀り、近隣25箇村の産土神 としたのが当社の始まりと社伝に伝えられる。
主な年中行事 ・歳旦祭(さいたんさい)・・・1月元日
・節分祭(せつぶんさい)・・・2月 3日
・春祭(はるまつり)・・・4月15日
・六月大祓(みなつきおほはらへ)・・・6月30日
・例大祭(れいたいさい)・秋祭り・・・10月14日~15日
 ◎提灯立て  ◎子供太鼓巡行
・七五三(しちごさん)参り・・・11月15日
・新嘗祭(にひなめさい)・・・12月上旬
・七五三縄(しめなわ)講・・・12月24日~25日
・十二月大祓(しはすおほはらへ)・除夜祭・・・12月31日

【蹉跎神社の由緒】
 ご祭神菅原道真公は平安時代の学者で文章博士となられ、宇多天皇の信任が厚く、右大臣に昇られましたが、延喜元年(901年)京の都から九州の大宰府に御左遷を命ぜられました。その旅の途中、この地で休息され、塚の上から遥かに京の都を望み、名残を惜しまれた後、西に旅立たれました。この時道真公は屋敷の満開の梅花に『東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』と有名な歌を残しています。  またこの休息された山は管相塚(かんそうづか)(現寝屋川市管相塚町)と云われます。都に残された人々の中でも菅公が特に可愛がっておられました苅谷姫が、父の御後をしたって中振のこの地まで来られましたが、既に出発した後で逢えませんでした。父上が都を眺めたという塚の上に立ち、遥かに西を望み、足摺り(さだ)して悲しまれたので、その後、いつとはなしに、この辺りは「蹉跎」といわれ、蹉跎山・蹉跎川・蹉跎池の名がつきました。その後、道真公がご自身の三尺二寸のご座像をお手づからつくられたものを、村人たちが当山に社殿を造営し、近郷二十有五個村の産土神(うぶずなかみ)としてお祀りしました。その後慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で兵乱に社殿は炎焼しましたが、このご神像のみ無事であったため現在地に遷座して社殿を再建し、中振・出口の両村の産土神として奉祀されています。
 創建より幾多の変遷を経て明治5年に郷社に昇格。現在の社殿は明治22年3月に改築されたもので、明治40年の幣饌料供進社に指定され今日に至っています。

【境内神社】 拝殿横に4社が並んで祀られています。(左写真の右から)
 ・皇大神宮社・・・祭神:天照大御神
 ・金毘羅神社・・・祭神:大物主命 崇徳院天皇
 ・春彦神社・・・祭神:春彦命 市寸島毘売尊 木花佐久夜売尊
 ・稲荷神社・・・祭神:倉稲魂命 猿田彦命 大宮女命

【蹉跎神社遥拝所】
 少し離れた淀川と1号線に挟まれた出口には御旅所があり、蹉跎天満宮の例大祭の日(10月15日)には神輿が渡御します。御旅所の敷地の奥には本宮の「遥拝所」があります。鳥居に掲げる神額には「天満宮」とありますが、脇の石柱は「蹉跎神社御旅所」です。

【旧跡】
◇管相塚(かんそうづか)(現寝屋川市管相塚町)
 菅相塚は菅原道真公が大宰府に左遷される途中、当地に立ち寄り、村人に案内され京都の方を望んで、名残を惜しんだところと伝えられ、地名の由来ともなっている(地名はかんそうづか)。かっては祠があったとのことだが、現在ではこれらしきものは何もなく、現地には解説板が建っているのみで、周りは住宅地となっています。
 また、現地の解説板には『道真の娘の苅屋姫が父の非報を伝え聞いたのは、道真が大宰府に出立する日のことであった。姫はとるものもとりあえず、父を見送るため、陸路で後を追うが、この丘に到ってようやく、父が乗るとおぼしき屋形船の姿を見つけたが、船影は遠く、苅屋姫は口惜しさに地団駄を踏みながら、嘆き悲しんだ』との伝説をメインとして記載しています。
◇蹉跎山
◇蹉跎池
◇蹉跎川
 苅谷姫が父菅原道真公が都を眺めたという塚の上に立ち、遥かに西を望み、足摺り(さだ)して悲しまれたので、その後、いつとはなしに、この辺りは「蹉跎」といわれ、蹉跎山・蹉跎池・蹉跎川の名がついています。

【蹉跎天満宮誌】(蹉跎天満宮大祭の記録)
 今回の取材時に阪本宮司からいただいた「蹉跎天満宮誌」は蹉跎神社の歴史を語る記録誌です。大正10年の初版、昭和27年(菅公壱千五十年大祭)、昭和52年(菅公千七十年大祭)、平成14年(菅公千百年大祭)の25年に一度の蹉跎天満宮大祭についての詳細な記録が記載されています。菅公千百年大祭を機に先代の 宮本宮司が尽力し、それまでの資料をまとめて「蹉跎天満宮誌」として発刊されています。

【地域との連帯】
◇秋の例大祭に3地区で子供太鼓みこしを巡行
 南中振地区(枕太鼓)、北中振地区(布団太鼓)、出口地区(太鼓神輿)の3地区で蹉跎神社の支援指導のもと毎年地区の子供会が中心となり、太鼓の練習を行い、秋の例大祭に3地区での巡行を盛大に行っています。
◇七五三縄講
 蹉跎神社の注連縄は毎年12月25日の「天神さん」に日に合わせて、藁打ちから縄を綯うまで神社の境内で氏子さんの手で七五三縄講(しめなわこう)として大正2年より続いています。一の鳥居、二の鳥居の大きな「しめなわ」から各社殿の「しめなわ」が出来ると本殿で「お祓い」を受けてから、1年間の無事を祈って掛けられます。
◇六月大祓 ・・・ 右写真は2014年6月29日撮影
 日々で積もった「ツミ・ケガレ」を神々に『祓い清める』祈りを捧げ、そのお恵みを戴き、清浄な心身に立ち返り、そして明日への望みを繋ぐため、年に二度(六月、十二月)大祓が行われるようになり、この神事では古来より形代(カタシロ)を自分の身代わりとして行い、ちのわ(茅でつくった大きな輪)をくぐります。今年から蹉跎神社でも「ちのわくぐり」の神事も行いましたが、当日は雨にもかかわらず大勢の人が来られて御参りされていました。

【取材後の感想】

  1. 京阪電車光善寺駅から線路沿いに南に5分ぐらいに神社参道入口の「郷社蹉跎神社」の石標があり、そこから真っ直ぐの緩やかな坂道の蹉跎参道が続きます。すぐに一の鳥居があり、またしばらく登って行くとこんもりとした森とそこに社務所と二の鳥居が現れます。絵馬堂を兼ねた屋門から80段以上の石段を登りきると綺麗に清掃された神秘的な雰囲気の境内が広がり、そこに拝殿、本殿、4つの境内社、神楽堂、神牛社、神輿倉が整然と鎮座し、また絵馬堂、拝殿内の奉納物など古式豊かな伝統あるものがたくさん存在する蹉跎神社でした。
  2. 神社祭神の菅原道真公と苅谷姫の別れのお話と蹉跎(さだ)の名前のいわれの伝説など古い歴史のロマンを感じる「蹉跎神社」の取材になりました。古い歴史を持つ中で、現在も氏子さんが1,000人もいて、元旦初詣は3時間待ちの人気ある神社で、取材後の6月29日の六月大祓におうかがいしましたが、雨が降っていたにもかかわらず、400人ぐらいの地域の人が境内一杯となり、御参りされていました。また新しい取り組みとして「ちのわくぐり」を実施するなど地域との取り組みも積極的にやられていて、日頃は地域から天神様として崇められ、親しまれている歴史・伝統を持つ神社であると感じました。
  3. 今回の取材は宮司の阪本悦子様と氏子責任総代の畠山様にたいへんお世話になりました。阪本宮司は枚方市では2人おられる女性宮司で、現在は蹉跎神社、寝屋川市の鞆呂岐神社(ともろぎじんじゃ)神社など4つの神社の宮司を務めて、日々大変忙しい中でしたが、蹉跎神社の由緒や神道のお話を明解に丁寧にしていただき、神様の考え方などが良く理解できました。御父上の先々代の西尾宮司から厳しい教えを受け、ご自身も相当の修行と研鑚を積まれてきたと感じました。取材後も神社内を隅々まで案内していただき、ありがとうございました。

取材・写真撮影:坂本、福本、永井、中村  HP作成:中村

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