枚方の名勝(第4回)旧田中家鋳物民俗資料館

第4回『旧田中家鋳物民俗資料館』

2001年12月13日 取材

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鋳物の渡来

 人類の文明は金属と共に始まった。金属の加工法には、固体のまま叩いたり(鍛造)、延ばしたり(圧延)する塑性加工法があるが、中空の物を作ったり複雑な形を作るには、溶かして鋳型に流し込んで固まらせる(鋳物)が有効です。また大仏さまのような大きい物から指輪のような小さい物まで作れ、同じ形状の物を大量に作るのも容易です。
 銅と錫の合金、青銅鋳物を作る技術は、紀元前3500年頃、銀の河と呼ばれたユーフラテス川の上流、イラン・イラク北部の山岳地帯で確立され、古代オリエントの世界に広がり、そこからヨーロッパ、中央アジアを経て東アジアへと伝播してゆきました。
 中国では商の時代(BC1600)に精緻な青銅器が多数発見されています。日本では弥生時代(BC300~DC300)の遺跡から鉄器や青銅器が発見されていますが、中国や朝鮮からの渡来品が殆どで、銅剣や銅矛などが模倣して鋳造されるのは弥生中期以降のことです。古代の鋳物は銅鐸や鏡などの儀器のような物が多く、実用的な鉄器は鍛造で作られていました。仏教の渡来と共に、仏像が造られ中でも石材の少なかった日本では飛鳥、奈良、鎌倉の三大仏も青銅鋳物で造られました。

河内を仕切った鋳物師田中家

 古来から典鋳司や蔵人所に属していた鋳物師は、戦国時代になり真継久直が戦国大名に働きかけ鋳物師の全国支配を始め、鋳物師職許状の発給や座法の作成など明治に至るまで続きました。

 古くから河内は鋳物師発祥の地とされ、中世の梵鐘の鋳造の殆どは河内の鋳物師が独占していました。枚方周辺に鋳物師が移り住んだのは、真継家文書によると織田・豊臣時代に居住していたことが確認できます。
 枚方は京都に近く田中家の営業規模も大きかったため、真継家から重視され鋳物師職許状が発行された。正徳14年(1714)には、いち早く許状が田中二左衛門に与えられています。

 田中家は河内国惣官鋳物師に任ぜられ国中の鋳物師を統率すると同時に、交野・茨田・河内三郡の鋳物師大工職を安堵されて、この地の鋳物業を独占していました。

鋳物民俗資料館に復元

田中家跡に残る椋の大木

 枚方市上之町(現岡南町)の丘陵の突端にあった田中家は、京街道や淀川を見下ろす位置にあり、今も樹齢500年を越える椋の大木が残っています。近世の田中家では日常的には鍋釜、農機具の鉄製品、注文があれば梵鐘や半鐘の青銅製品を鋳造していました。
 田中家の鋳造した梵鐘は、今判るだけでも44口を数えますが、その大半が戦時中に供出され残っているのは15口で、枚方で現存するのは渚院観音寺の梵鐘だけになっています。

 明治の中頃からは梵鐘などの美術鋳物から手を引き鍋・釜・農機具など鉄製日常品を鋳造していました。また明治に入り真継家の鋳物師支配も崩壊し自由競争下になり、明治末期には欧米の近代技術を導入した大量生産品の安価な鍋釜が出回ったため、昭和に入ってからは鍋釜から手を引き、農機具を中心に生産していました。
 戦時中には主として軍需用品の下請けをしていましたが、戦後耕耘機の普及で農機具の受注が無くなり、昭和30年代に廃業を余儀なくされました。 第54代当主田中宇之松氏より昭和48年と50年に工場と主屋が枚方市に寄贈されたため、市は昭和49年から57年にかけて藤阪天神町に両棟を移築復元し、「枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館」として、鋳物の歴史と当時の生活品を展示して公開しています。

田中家の鋳物資料

「枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館」として、鋳物の歴史や当時の生活品を展示。敷地内には弥生時代の復元竪穴住居や移設した方形の竪穴住居跡がある。
甑炉(溶解炉)を高温に保つために風を送る蹈鞴(たたら)は、足踏み式の大きなふいごで、長方形の踏み板を交互に足で踏んで空気を圧搾して炉に送った。近隣の農家からかり出された雑役が3人1組の9人で交代しながら踏み続けた。昭和初期からは送風機が導入された。
鋳型は真土型(まね)という耐火性のある粘土と砂を混ぜて一度焼成し粉砕した物を使います。型の造形には色んな方法があるが、田中家では梵鐘などは外型は分割し、中子は挽型で挽いて整形して造ります。
10世紀以降、日常に使われた和鏡は、真土を用い引き板を水平に回転させて造った鋳型に、背面の図柄を型面にヘラで押しつけて作ったヘラ押しの技法が使われた。
近世の田中家では日常的には鍋釜、農機具の鉄製品、注文があれば梵鐘や半鐘の青銅製品を鋳造していました。明治の中頃からは梵鐘などの美術鋳物から手を引き鍋・釜・農機具など鉄製日常品を鋳造していました。
田中家では炭などの材料を淀川の浜から荷揚げしていましたが、献上灯籠などを鋳込む材料に裏菊紋を染め抜いた禁裏御免蹈鞴株の幡をさして運搬すると、御三家紀州藩の大名行列さえも止めて京街道を横断する事が出来たという話が伝わっています。
屋根瓦は通風のためつきあわせず隙間があり、その上に丸瓦を積んだ特殊な構造になっています。
田中家主屋は桁行8間、梁行4間半、屋根は切妻造り本瓦葺きの建物で正面に庇が設けられている。1739年に釣鐘を鋳造したときの祈祷札が打たれていることから建築年次の下限が判る。
座敷には4つの部屋があり、へやと呼ばれる寝室、座敷という客間、入り口に近い中の間は普段の客、台所は食堂兼居間となっています。当時の食器、暖房器具、収納具、河内木綿の機織り具等が展示されています。
第54代当主田中宇之松氏より昭和48年と50年に工場と主屋が枚方市に寄贈されたため、市は昭和49年から57年にかけて藤阪天神町に両棟を移築復元した。
甑炉(溶解炉)は竪炉で上甑・中甑・下甑・湯だめからなり鉄心で補強した粘土の輪を積み重ねた物です。湯だめの底に溶けた金属を流し出す出湯口があり、中甑に風を送り込む羽口があります。湯だめに長い棹炭を縦に並べその上に羽口上まで木炭を横に並べ、更に地金と木炭を交互に積み重ねて溶解します。
鋳物作りに使われた工夫を凝らした様々な工具
茶湯釜は引き板を回転させ上型と下型を作り地紋をヘラ押しして上下あわせて型焼きします。この外型に土を詰めて中子をとり火で焼き上げたあと釜の厚みだけ削り取って仕上げます。
田中家の鋳造した梵鐘は、今判るだけでも44口を数えますが、大半が戦時中に供出され残っているのは15口で、枚方で現存するのは渚院観音寺の梵鐘だけになっています。
甑に送風を初めて1時間ぐらいで金属が溶融されユをくみ出して鋳込みにかかります。鋳込みに約1時間かかり、この作業は暑くて辛い作業でした。高熱の空気は1間の風袋から逃がします。
鋳物工場は桁行12間、梁行5間半、屋根は寄せ棟作りで、高熱の作業が続くため、工場の壁面には窓がたくさんある構造になっています。
建物の約半分の広い土間が設けられており、この土間には当時の農具や、漁具、運搬道具、台所用品などが民俗資料として展示されている。
主屋の隣に管理棟があり財団法人枚方市文化財研究調査会の事務棟となっており、市内で発掘した文化財の調査研究が行われています。

<リポーター:鬼頭・梅原・中西・冨田 HP作成:冨田 WP編集:冨松>

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