地元の話 No.7

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難 宗 寺(なんしゅうじ)

 1347年、融通念仏宗の実尊上人が來迎寺を建立されました。
実尊上人亡き後、來迎寺は移転し、あとに祠(ほこら)が残され、近くに住む來迎衆が護持していました。
(※ 來迎寺は門主が変わるたびに移転、現在は佐太にあります。)
(※ 旧來迎寺の関係で、難宗寺の近くに現在も来迎町の地名があります。)
文明7~9年(1475~7)蓮如上人が現枚方の光善寺に逗留されていた時、この祠をたびたび訪れ布教されていました。
そして1477年、祠ごと信者全員が浄土真宗に改宗しました。これが難宗寺の開基といわれています。
(※ 守口へは淀川水路で、守口からは「ならみち」を利用されたそうです。)
その後、蓮如上人の孫実円師が、傷んだ坊社を修復されました。
戦国時代の信者を守るため、寺を中心にした防衛構造とし、自主運営ができる町づくりをされました。
これは戦国時代各地に生まれ、自治が認められた寺内町と呼ばれるものです。
大坂夏の陣では、兵火で付近の集落共々難宗寺も焼失。寛永13年(1636)、村上良慶法師が、茨田郡の本山別院(掛け所) として再建されました。
(※村上良慶法師は肥前中津浄喜寺住職で、元村上水軍武将、小早川家家臣)
その後さらに、落雷、風水害で傷み、 1810年に再建されたのが現本堂、書院です。
再建には、50年の歳月を要しましたが御連枝富田本照寺住職の指導で、 本山坊舎に似た美しい形の典型的な真宗寺院となりました。
(※ 最近200年目を期し、屋根の一部解体修理と壁面の耐震補強をしています)
この本堂は、完全に左右対称で、 典型的な真宗寺院の形式がとられています。
また、当時は、周囲を築地堀で囲み、西南に鐘楼、西に山門、 北に長屋門・太鼓楼、本堂東北に玄関・書院、庫裏を配しており、守口市内の真宗寺院として最も整った構えが残され ている重要な文化財です。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗退し、それを追う形で3月に明治天皇が大阪へ行幸途中宿泊されました。
この行幸には大阪遷都の計画があり、賢所、文武百官も同伴、守口は 一夜の帝都になりました。
また、境内には、樹齢500年、木の高さ約25m、直径約1.5mの大イチョウがあります。昭和50年(1975)に大阪府の天然記念物に指定されています。

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