【必見】山本さんの歴史探訪旅行記 一括掲載版(全47箇所解説と探訪の心得12か条付き)

山本さんの歴史探訪旅行記

 ホームページ担当の鷲見です。
 先月(2022年12月)「山本さんが選んだ実戦城郭ベスト10」を紹介しましたが、山本さんから昨年5月の旅行記をいただきましたので紹介します。
 このような旅をされているのですね。詳細な記録に驚愕!
 なお、この8日間の旅を1日目から8日目まで8分割した分割版も作りました。また一日の最初にはGoogleマップにその日の所在地をプロットしました。地図を眺めるだけでも面白いですね。  分割版のリンクをこのページの下に貼りました、こちらの方が少しずつ読むには丁度良い長さです。

歴史探訪(長野・群馬・静岡)

2022年5月15日から一週間の旅

ルート

歴史探訪の心得12か条

歴史探訪の心得

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目次


歴史探訪 長野

山本さんの歴史探訪旅行記

第一日目・クリックで地図が開きます


1.
・姨捨の棚田(田毎の月)
・芭蕉碑
 日本の棚田百選
 名勝
 長野県千曲市八幡4984(長楽寺)
 長野道姨捨スマートICから約1kmで姥捨観光会館P(50台)
 三峯山(1131m)の北東麓に16世紀半ばから造られた棚田。初夏に水を張った棚田に月が映り込む風景は田毎の月(たごとのつき)として江戸時代から有名。歌川広重の『六十余州名所図会』にも描かれている。日本の棚田百選、国の名勝、重要文化的景観に選定。標高460m~560mに約2,000枚の棚田が残る。905年に初めて「姨捨(うばすて)山の月」と歌に詠まれ古くから月の名所(日本三大名月)として数々の歌が詠まれてきた。1688松尾芭蕉の来遊もありまた「冠着山・更級川・姨石・姪石(めいし)・甥石(おいし)・小袋石」など、姨捨を構成する13か所の風景や観月の名所として棚田を「姨捨の田毎の月」はさらに広く知られる。景観保護のため姨石や芭蕉の句碑などが残る長楽寺一帯とそこから望まれる48枚田、姪石を展望地点として名勝に指定保存。ちなみに姨捨という地名はかつて貧しい村では70歳になる老人を山に捨てたという伝説に由来。
自宅~約400km 所要時間約5時間 高速代約9000円


2.
川中島の戦い
①武田信繁墓(典厩寺てんきゅうじ)
 長野市篠ノ井杵淵1000-12

②山本勘助墓
 長野市松代町柴260寺尾小近く

③高坂弾正忠昌信の墓(明徳寺)
 長野市松代町豊栄2833
①川中島合戦で討死した信玄の実弟・信繁(典厩)の墓あり。合戦時は鶴巣寺と号して薬師如来を本尊としていた。合戦から60年後、松代藩主真田信之が信繁の唐名「典厩」から寺号を典厩寺と改め信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者6千余名を弔った。信繁は討死して上杉方に首級を取られたものの、信繁の家臣らが追撃して取り返した。首級は領地の小諸に帰りここの墓は胴体だけと伝わる。
②1561川中島合戦では自らが進言した「啄木鳥戦法」を上杉謙信に見破られたため武田軍が苦戦に陥ったことに責任を感じ討死覚悟で敵中深く奮戦、力尽きたと伝わる。この山本勘助墓は昔はこの南方の高畑附近にあったが1739に松代藩家老蒲原重栄がこの地に移設、碑を建てたもの。(現地説明文より)
③山本勘助に兵法や築城の教えを受けた智将高坂正忠昌信の墓あり。信玄、勝頼の2代にわたって仕えた。川中島の合戦後には、敵味方の区別なく戦死者の遺体を丁重に収容し武具まで取り揃えて敵方に引渡したという。のちに謙信が越後から甲州の民に塩を送った美談があるがこれは高坂弾正忠の義に対する返礼であったと伝わる。明徳寺の本堂は、入り口が建物の左寄りに設けられている珍しい造り。
典厩寺住職との会話:朝9:30頃、庭の掃除を行っていた。姿勢が大変よく健康に大変気を使っておられる人だった
①枕は用いない。半年で慣れる。腰痛もない。ソフアーには座らない。
②ストレッチは必要。膝上げで足鍛えてヨロヨロが少なくなった。転んで入院すると体力の低下が進むので気をつけている。
③酒は飲まない。甘いものも食べない(糖尿防止)
④1時間以上座るのは良くない。足のために立つこと大事。


3.
長国寺(松代藩真田家の菩提寺)
 国史跡
 長野県長野市松代町松代1015-1<
創建当時は総門、禅堂、開山堂、江湖寮(3棟)、衆寮、庫裏など東西におよそ130m、南北に260mという広大な敷地に偉容を誇っていた。 上田市真田町長(おさ))の長谷寺に始まる。江戸時代に入り真田信之が1622上田城から松代に移されると当時の長谷寺の住職を開山としてここに建立したのがこの寺。真田家からは黒印地として200石が知行。知恵と忍耐で家名を護り真田の血を現代にまで残した賢将・信之公の霊廟(重文)あり。


4.
山寺常山邸
 国史跡
 長野県長野市松代町松代1493-1
山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格。江戸時代末期に山寺常山を輩出し、鎌原桐山、佐久間象山とともに松代の三山と称された。8代藩主真田幸貫の信望も厚く藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐した。明治になってからは中央政府の招きを固辞し藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめた。現在、山寺常山邸には表門と書院が残る。表門は長屋門形式で全幅は約22m、松代城下に残る門のなかでは最大。


5.
松代大本営跡(像山地下壕)

 長野市松代町西条479-13
入壕料:無料
 9時~16時
 毎月第3火曜日休み

太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために現松代地区などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡。象山地下壕が一般公開されている。政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。松代が選ばれたのは①.固い岩盤で掘削に適し10t爆弾にも耐える。②.山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち広い平野がある。③.長野県は労働力が豊かなど。日本人を中心に朝鮮人労働者や技術者が昼夜を問わず突貫工事で進められた。見学できるコースは延長519m。年間12万人の見学者あり。


宿泊1 5月15日.
ホテルオリンピア長野

 〒381-2224 長野県長野市川中島町原768-2

ビジネスシングル(禁煙) 朝食(バイキング)付きプラン 6200円(税込) 冷蔵庫付き 洗浄機付トイレ
 JR篠ノ井駅より徒歩12分
 口コミ:
①古い感じは否めないが十分なホテル。朝食が楽しみ。②多分二度と利用しないホテル。フロントの対応は最低。救いは手作りの朝食。③良心的な価格、部屋も綺麗。


歴史探訪 松代 坂城町 上田

山本さんの歴史探訪旅行記

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6.
妻女山(上杉謙信本陣)
 比高50m
 長野県長野市松代町岩野長野ICから403号を西に進み10分
 Pあり10台
 1561、8月、上杉謙信が1万3,000人の軍陣営を設けた小高い山。展望よく、東に松代の町、西北に千曲川の流れと川中島平一帯を見渡せ、武田方の海津城の動静を伺うには絶好の場所。現在山腹には、戊辰戦争の戦死者を祭る招魂社(しょうこんしゃ)が建つ。展望台からは、遠く北アルプス、戸隠、飯綱などの山々が一望でき、信州のサンセットポイント100選の1つ。
 •甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は北信濃の覇権をめぐって川中島周辺で5度衝突、中でも「第4次川中島の戦い」では両軍合わせて7000人以上の死者が出たという。武田軍は啄木鳥戦法によって上杉軍を挟撃しようと計画するが上杉軍に裏をかかれ別動隊1万2千が妻女山に到着した頃にはもぬけの空だった。先に山を降りた上杉軍は八幡原で武田軍本体と激突、多くの死者を出したが決着が付くことはなかった。

6


7.
雨宮の渡し跡
 千曲市雨宮1533-4保育園
 1561第4次川中島の戦いの時、武田側の炊飯煙を見て「啄木鳥の戦法」を察知した上杉謙信は1万3千の兵を率い夜陰に乗じて妻女山を下り千曲川を人馬ともに声なく渡り武田信玄の本陣に突撃したとされる。このあたりは平安時代から重要な軍事上の渡河地域であった。現在は頼山陽の直筆になる「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る……」の有名な詩碑が建つ小さな史跡公園となっている。現在の千曲川は約800m北方に移動している。


8.
森将軍塚古墳
 国史跡
 長野県千曲市屋代29-1
山本さんの歴史探訪旅行記
 今からおよそ1,600年前以上昔、4世紀中頃の古墳時代前期に造られた全長約100mの前方後円墳。当時の科野のクニを治めていた王の墓と考えられる。長野県下には約50基ほどの前方後円墳があるが最大のもの。標高490mの所にあり。古墳までの道のりは「科野の里歴史公園」駐車場から約1kでゆっくり歩いて20分ほど。トレッキングコースが整備されている。古墳からは美しい眺望が臨める。天気が良い日は北アルプスの山々が見える。
 市内の夫婦との会話:健康のためここを歩くことが日課の様子。また二人して好きな趣味があることが健康に繋がっているとのこと。郷土愛が強い様子。①夫ちょうちょが専門。収集と解説。小学校に呼ばれて解説することがある。サイパンの遺骨収集にも参加。全体で60柱を集め東京の千鳥ヶ淵に収めたとのこと。②妻俳句の先生。塾をひらいている。夫の趣味にもつき合い俳句の題材入手に余念がないみたい。生徒の句をバッサリ切ることあり。夏井先生にもお会いした。性格よく似ている感じだった。


9.
狐落城こらくじょう
 比高260 m
 長野県坂城町網掛1538-8
 村上大国魂社(千曲川南側)
山本さんの歴史探訪旅行記
 村上氏の元々の本拠はこの付近で後、千曲川対岸の葛尾城へ本拠を移した。村上義清が葛尾城の支城の1つで狐も落ちるほど急峻なのでこの名がついたという。村上氏の詰城ともいわれる重要視された城で1553武田信玄の侵攻によりこの城が落ちたことを聞くと義清は家臣を連れて越後に逃走。現在城址には一部石積みが残る。山麓に村上大国魂社(村上氏の氏神)がありここに登城口がある。神社の鳥居までの竹林、鳥居を過ぎてからの本殿までの参道は趣がある。
 攻城メモ:葛尾城の反対側に位置する義清の支城。途中から急な上り坂が続くがロープがあるのでそれなりに登れる。十六夜観月殿も趣がある。


10.
上田原古戦場跡
 長野県上田市上田原363(石久摩神社)
 千曲公園=車で行くことは可能だが車1台がやっと通れるような獣道。
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 1548信濃攻略を進めていた武田信玄(8千)と葛尾城を本拠とする村上義清(5千)が武力衝突した古戦場跡。信玄は南東にある倉枡山、義清は北西にある天白山(千曲公園=絶景スポット)の麓に各陣をはり上田原一帯で合戦。最初は武田方が優勢であったが村上方の逆襲にあい武田方は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿根伝右衛門などの重臣を失ったほか、信玄自身も手傷を負う負け戦さ。勝った村上方も屋代源五、小島権兵衛などの武将が戦死。無敗の武田軍が初めて負けた戦い。 両軍合わせて約千(村上300:武田700)の死者が出たとも、 今は石碑が残るのみ。石久摩神社境内に古戦場の碑が神社裏に無名兵士の塚あり。

10上田原古戦場跡


11.
海野宿(うんのじゅく)
 日本の道百選
 重伝建
 長野県東御(とうみ)市本海野1052
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 真田一族の本家筋とされる名家海野一族ゆかりの地。真田昌幸が上田城築城の際にここから寺社や町を上田市に移した。1625中山道と北陸道を結ぶ北国街道の宿場町として開設、大変な賑わいを見せた。町並みは江戸時代の旅籠屋造りや茅葺き屋根の建物と明治以降の堅牢な蚕室造りの建物とがよく調和して伝統的な家並みを形成。道の中央を流れる650mの用水が流れその両側に立ち並ぶ格子戸のはまった美しい家並みは歴史のふる里を想わせる。レトロで趣のある町並みでほっこり癒しの時が過ごせる。


12.
別所温泉
 長野県上田市別所温泉 温泉駅南の有料P
 ①北向観音 上田市別所温泉1656
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 ②石湯(150円)P無料 上田市別所温泉1641
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 ③塩田城 上田市前山541   別所温泉南東約4km
 信州最古の温泉といわれる天然温泉と国宝や重文などの歴史的建造物がある。信州の鎌倉といわれる塩田平がある。1277かつて塩田北条氏三代(義政以後55年)の居城「塩田城」があった。またその周りには神社仏閣が点在し、現在なおその面影が残る。厄除け観音で名高い「北向観音」を中心に狭い路地が入り組む温泉街が広がる。 観音様を取り囲むように慈覚大師が愛した「大師湯」、『真田太平記』にも登場する「石湯」( 0.1 km)、木曽義仲が入浴したと伝わる「大湯」( 0.4 km)と由緒ある共同浴場が点在。
 
 


宿泊2 5月16日.
道の駅「上田・道と川の駅」おとぎの里
 長野県上田市小泉2575-2 標高420m無休18:00まで P66台 日帰り温泉あいそめの湯(別所温泉)
隣の道の駅あおきより規模大。お勧め:馬肉うどんセット850円
 日本百景奇岩の「岩鼻」を背景に武田信玄と村上義清の軍勢が激戦死闘を繰り広げた上田原の合戦地に隣接。駐車場・トイレは24時間利用可能。ここから望む日本百景 奇岩「岩鼻」は高さ100mもある地域のシンボルでその山頂にある千曲公園からは上田市街地や周辺地域を一望できる。 


歴史探訪 上田

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13.
大輪寺
 真田昌幸夫人の墓
 長野県上田市中央北1-5-7
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 寺伝によると寺はもと砥石城(旧神科村)の東麓の「畑山」にあったが真田昌幸が上田築城の時、夫人の発願によって現在地に再建。昌幸夫人(寒松院)の墓があるお寺で長男信之(幸)、次男信繁(幸村)の生母。生前は山之手殿、または京の御前と呼ばれていた。本堂の前にある立派な楼門には東西に回廊が伸びていて堀で囲まれ小さな城の様な造り。真田家にゆかりがある寺院らしく本堂の屋根の上部に真田家の家紋・六文銭が刻まれている。寺は少し奥まったところにひっそりと建っている。 寺の後ろの山道を少し上ると寒松院の墓がある。
 
 


14.
砥石城
 比高160m 難易度3
 長野県上田市上野2604
 P5台 登城25分程
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 村上義清と武田信玄が激しい争奪戦を展開、有名な「戸石崩れ」の舞台。この地方に勢力を張った村上義清の重要な拠点。城は上田盆地の北東にそびえる東太郎山の尾根先を利用して築かれ東は切りたった崖、西は急坂続きの斜面で、麓に展開する旧神科村畑山・伊勢山・金剛寺の三集落にまたがるスケールの大きい山城群。枡形城、本城、砥石城、米山城の4城を総称して「戸石城」と呼ぶ。1550信玄がこの城を大軍で1カ月余攻めたが攻略できず退却に千人の犠牲を出した。その翌年武田氏配下の真田幸隆が得意の策略で城を乗っ取り居城とした。城跡からは上田市街と真田の町並みが一望できる。陽泰寺近くに駐車可能。道がわかりやすいのは南の登山口でトイレも完備。ここから登ると砥石城と米山城の間の鞍部に至る。攻城メモ:遺構が沢山残っていて良い城跡
 

14砥石城


15.
真田氏館跡(お屋敷公園)
 長野県上田市真田町本原2984-13
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 真田氏が上田に移るまで使用していた居館の跡。周囲には数十mに渡るハシゴ形状の土塁が巡らされている(虎口の遺構も残る)。当時の居館の形態がほぼ完全な形で保存されている。現在は「御屋敷公園」として整備されツツジの名所として有名。隣接して真田氏歴史館あり(入館250円 火曜日休館)
 


16.
真田氏本城
 別名:真田山城、松尾新城
 比高150m 難易度1
 P長野県上田市真田町長5029-3
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 真田の郷のほぼ中心部の小高い山上尾根の突端にある。真田氏の本城にふさわしい規模の城で城跡からは砥石城や矢沢城を一望できる。城跡には土塁や郭が残り自然の地形を活用した真田氏の巧みな築城技術がしのばれる。上田城の築城まで三代にわたり真田氏の本拠地となる山城。山城に必要な水の手が上方の山地から本城に続く尾根づたいに本郭の近くまで引き込んでいた。現在は公園として整備されており登頂部には駐車場あり。
 攻城メモ:堀切や数カ所に立て札あり。 幹線道路から上がる道は狭くて急だが 短距離なので苦にならない。 トイレが新しくキレイ。
 
 


17.
長谷寺ちょうこくじ
 (真田氏菩提寺)
 長野県上田市真田町長4646
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 真田幸隆が開山した真田氏の菩提寺。本堂の右脇奥から山の方へ50mほど入って行くと幸隆夫妻と昌幸の墓あり。幸隆が武田信虎らに信州を追われ上州に数年亡命。武田家が晴信(信玄)に代替わりすると幸隆は自ら晴信に随身し村上義清から戸石城を奪うことに成功。そして旧領を回復して真田の里に復帰。六文銭が刻まれた石門やこれを覆うように咲くシダレザクラも見どころ。町はずれの結構奥深いところにひっそりとあるお寺。
 
 
 


18.
松尾古城
 比高196m 難易度3
 長野県上田市真田町長横沢
 真田町長字日向
 松尾城の無料駐車場あり
 詳細は定かでないが真田氏が築いたと考えられる。海野一族の幸隆が世に知られる以前の真田氏は資料が乏しいが四阿山・菅平山麓の牧経営から山家郷を治め上田荘・常田荘へと勢力を拡大した有力土豪。1548武田晴信が村上義清と戦った上田原合戦の頃、幸隆が武田氏に仕えその後の戦功により本領真田郷を回復。幸隆は横尾城や松尾城などの真田本城を囲む支城を整備している。
 


19.
信綱寺(しんこうじ)信綱菩提寺
 長野県上田市真田町長8100
 真田幸隆–信綱・昌輝・昌幸–信之・信繁(幸村)
 室町時代の創建。信綱は真田幸隆の長男でここが菩提寺。幸隆の死後、真田家を継ぎ武田ニ十四将の一人となるも家督相続後、わずか1年後長篠の戦いで討ち死(享年39)する。ニ男・昌輝も討ち死にし「長篠合戦図屏風」には六文銭の旗差し物を伏せ、馬防柵に突進する信綱・昌輝兄弟が描かれている。長篠合戦後、三男・昌幸が家督を継いだ。信綱の墓は本堂の右側(鐘台の外)に進み裏山へ続く舗装路をちょっと歩くとある。
 先祖は信濃国東部に古代から栄えていた滋野一族に属する海野氏の流れと考える向きもある。
 


20.
日向畑遺跡(ひなたばたけ)
 長野県上田市真田町長角間
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 松尾古城の麓にあり角間集落の西入口、松尾古城跡の南麓一帯は真田氏の古い居館跡。ここに安知羅明神や阿弥陀堂があり周辺には多くの石塔群も点在また安知羅明神には真田幸隆または幸村の少年時代と伝えられる木像が安置されていた。かつてここには真田氏の菩提所と伝わる常福院とよばれた寺院があったことが記録に残る。日向畑遺跡はちょうどその寺院の境内にあたると見られる。五輪塔と宝篋印塔を墓塔とした墳墓跡で全体として23か所の納骨遺構が確認されている。時代については室町から戦国にかけてのものと推定。長谷寺の北で近い
 
 
 
 
 


宿泊3 5月17日.
ホテル上田山荘
 〒386-0014 長野県上田市材木町2-6-32 0268-22-9720
 P無料
シングル夕朝無し 3900円(税込) トロン温泉24時間入浴可。 冷蔵庫付き 洗浄機付トイレ(一部) JR上田駅から徒歩約28分
 口コミ:建物は古いが部屋設備は新しく、和室は快適、トロン温泉が気持ちいい。この価格でこれは十分。
 


歴史探訪 嬬恋 吾妻 高崎

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21.
大笹関所跡
 群馬県嬬恋村大笹322
 真田歴史館から144号線、145号線を群馬方面へ約30分程(無料))
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 1662沼田藩主真田氏が設置、1868明治元年まで約200年取り締まった。信州街道(大笹街道)は上州と信州を結ぶ代表的なルートの1つで人々の交流や物資の流通に大きく貢献。また戦略的・軍事的な面からも上野国の中では碓氷、猿ヶ京などと並ぶ重要な関所の1つ。関所と接する沢には刎ね橋(はねばし)が架けられている。現在残る門扉の建築部材は廃関当時のもの
 


22.
大笹宿
 群馬県嬬恋村大笹
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 信州と上州の往来に北国街道・中山道よりも脇道のここ信州街道(大笹街道)の方が規制が緩く距離も短く通行量が増えた。そのため幕府は1650信州街道を北国街道の脇往還として公認。宿場町・荷継場として発展した。当時の職業がそのまま屋号となった「鍛冶屋」「油屋」などがあり今も残る。現在の大笹は古い家が減っているが国道144号の新御関所橋から大笹交差点付近を歩くと昔の町並みの雰囲気が感じられる。
 


23.
赤岩宿
 重伝建
 群馬県中之条町赤岩225
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 集落が立地する場所の標高は約690〜710m。地区内を南北に走る通り沿いに昔ながらの家並みが続いている。高野長英が隠れ住んだ湯本家が中心にある。赤岩は養蚕業を中心とした歴史ある農山村で明治から昭和中期を中心とする養蚕農家群十数棟が残る。小屋・蔵や石垣からなる敷地、神社やお堂、森林、山並みなど養蚕に係わる伝統的な集落のたたずまいを今に伝えている。口コミ:赤岩ふれあい家はコミュニティ施設。日本で最も美しい村、のどかで落ち着ける世界。軽くタイムトリップした気分になる。
 

23赤岩宿


24.
潜龍院跡(せんりゅういん)古谷館
 群馬県東吾妻町郷原古谷
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 1582真田昌幸が勝頼公を迎えるため築いた館城がここ古谷御殿。しかし勝頼は小山田氏を頼ることを選択したので不使用に。この御殿跡は潜龍院という寺院となり明治まで続いた。絶壁の岩櫃山の眼下に開けた不思議な空間で山の中に開けた庭園のよう。さしづめ真田のマチュピチュ。岩櫃山を外から見ている限りはその空間の存在など想像することはできない。入口手前20mに近づいても木立のベールに包まれている。しかしそこに足を踏み入れるや一瞬にして現代社会とは隔絶され戦国の世となる。真田氏が築いた特徴を持つ石垣が残りその上に館城があったことが容易にイメージされる。
 県内の父娘との会話:10:00ころからの岩櫃山登山を兼ねたハイキングも終わりに近ずいた様子だった。親子の関係が実にさわやか。二人して今日の工程と感想を額の汗をふきふき話してくれた
 


25.
岩櫃城(いわびつじょう)
 比高 80m 難易度3
 国史跡
 続日本100名城
 群馬県東吾妻町原町1935
 岩櫃城P(無料)約50台
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 岩櫃山の厳しい岩肌に守られた天然の要塞。岩櫃山802mの中腹594mに位置し室町期に斉藤氏築城。1563上杉謙信に従う斉藤氏を武田信玄に従う真田幸隆が攻め落城させた。真田信繁(幸村)が幼少時代をここで過ごしたとされる。織田信長による甲州征伐の際、昌幸は武田勝頼に新府城からこの城に逃るよう勧めたものの勝頼が外様の真田氏より小山田信茂の岩殿城を選んだため武田氏は滅亡。その後、真田氏は豊臣秀吉や徳川家康に従属して大名として生き延び岩櫃城も存続したが一国一城令で廃城(1614年)。
 攻城メモ:2016オープンの平沢登山口駐車場からスタート。ここから頂上まで約15分。ほぼ登山なので靴には注意。9月下旬ながら蚊もウヨウヨ。遺構は綺麗に残っている箇所もあり、見応えある。(2020/09/21訪問)
 


26.
長井石器時代住居跡
 群馬県高崎市倉渕町権田甲
 縄文時代後期の遺跡で平らな石を巧みに敷き詰めた住居跡。標高550mにあり約9度の勾配を持った南西向きの傾斜面に位置、昭和28年(1953)に発見。住居内から壺状の土器、石棒片、磨製石斧などが出土。
 


27.
東善寺(小栗上野介忠順公菩提寺)
 群馬県高崎市倉渕町権田169
 小栗公の墓参だけの場合は無料
 日本近代化の礎を築いた小栗上野介忠順。ここは小栗家五代政信公を中興開基とする曹洞宗のお寺。境内には上野介、又一、殉難の家臣らの墓が並ぶ。墓は麓に供養墓が、本墓は供養墓から2~3分登った所にある。1860、34歳の時、井伊大老の抜擢により洋式軍隊の整備、横須賀造船所の建設など日本の近代化を押し進めた。徳川慶喜の恭順に反対し薩長への主戦論を唱えるも容れられず1868罷免されて領地の上野国権田村に隠遁。65日後無実の罪を着せられ斬首。享年42才。1905日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は自宅に子孫を招き「日本勝利は小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と感謝したという。
 


宿泊4 5月18日(水)
道の駅「くらぶち小栗の里」
 027-384-8282
 群馬県高崎市倉渕町三ノ倉296-1
 9:00~19:00 毎月第2木曜日(定休)
 長閑な田園風景の中にある群馬県で29番目の新しい道の駅。こちらでは郷土料理の食堂でお勧め:おきりこみ鍋750円やトマトカレー750円。24時間利用可能の屋上デッキからは山々に囲まれた田園風景を見渡すことが可能。周辺観光情報も豊富なので草津や北軽井沢にお出かけの際に「よりみち」したい道の駅。


歴史探訪 安中 佐久

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28.
安中城(安中小学校)
 群馬県安中市安中3-10-43
 大泉寺:群馬県安中市安中3-21-44
 武田信玄の侵攻に備えて1559安中忠政が築城するも武田氏に降伏。武田氏の後北条氏最前線の城となった。 が「長篠の合戦」で討ち死にしたことに伴い廃城。1614井伊直勝(直政の長男)が3万石を領して安中城を再修築し安中藩が立藩。(直勝は彦根藩二代藩主のはずであったが病弱を理由に弟直孝が彦根藩を継いだ)。当時の遺構はほとんど残っていないが石碑が安中小学校の入口脇に建つ。本丸は小学校の東にあった現在は市街地や畑となっている。1994城址南側に旧安中藩郡奉行役宅が移築復元されている。また東端の大泉寺に直政夫人・直勝夫人の墓が残る。
 


29.
松井田城
 比高130m
 群馬県安中市松井田町高梨子
 城跡の案内板が目印。そして山道を登り突き当りに登城口と駐車場がある。
山本さんの歴史探訪旅行記
 碓氷川と九十九川に挟まれた標高396mの尾根上に築城、攻防の歴史あり。1560安中忠政が城を改築。当時、武田信玄の上野侵攻に備えたもの。しかし1564忠政は信玄に降伏。1582武田氏が滅亡。すぐに織田信長方の滝川一益が奪取。一益は家臣の津田秀政を松井田城に置くも同年、本能寺の変で信長が倒れると北条氏の攻撃を受け一益は撤退。北条氏の武将・大道寺政繁が城代に。政繁は徳川氏に備えるため城を大改修。1590豊臣秀吉による北条攻めの際は前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢が攻撃、城は1か月持ちこたえたが政繁が降伏。JR松井田駅の北方約1.5kmの場所に位置。登城口は城山の北東側にある。国道18号線から案内表示に従い北側に曲がりそこから約1.1km進み左の脇道に入る。山道を登り突き当りにPあり。現在、城跡は山林だが堀切や土塁など当時の遺構が比較的良好に残る。br /> 攻城メモ:素晴らしい城。規模が大、縄張が素敵、整備に愛を感じる。再訪したい城。(2020/09/27訪問)
 

29松井田城

 


30.
補陀寺(大道寺政繁の菩提寺)
 群馬県安中市松井田町新堀1186
 歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護された。1582小田原北条氏の有力家臣(北条家三家老の一人)大道寺政繁が当地に配されると自らの菩提寺に。政繁は武勇に優れ北条家からの信頼も篤かった為、常に最前線を任され領内の中山道の入口に当たる松井田の地を守らせた。政繁は豊臣軍の進撃に備えて城を一大要塞に大改修。1590小田原の役では1ヶ月持ちこたえるも落城。その後、政繁の豊臣軍に対する貢献は大でしたが小田原城の北条家が滅ぶと切腹させられた。江戸時代に加賀藩前田家の大名行列が通過すると政繁の墓(宝篋印塔)に悔し汗をかくと噂された(政繁と前田家には密約があったが反古にされ怨まれたとも)。
 


31.
碓氷関所跡
 群馬県安中市松井田町横川乙573-2
 松井田町横川441(展示室)
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 1623江戸幕府が設置した。中山道は特に重要な交通路であったため関東出入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守った。 関所跡内の観光案内所の中に入場無料の史料展示室あり。
 


32.
碓氷峠
 群馬県安中市松井田町坂本
 ①碓氷峠鉄道文化むら(500円)
  松井田町横川407-16
 ②碓氷第三橋梁
  松井田町坂本地内
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 標高約960m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺。長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。
 ①旧碓氷線の歴史を伝え小さなお子様から鉄道ファンまで楽しめる鉄道テーマパーク
 ②明治26年~昭和38年まで信越線アプト式鉄道時代に使われた橋梁で長さ91m、川底からの高さが31mのレンガ造り4連アーチ橋で通称「めがね橋」。現在はこの「めがね橋」の上を歩いて渡れる。橋梁は第2橋梁から第6橋梁までの5基が残っており、「碓氷峠鉄道施設」として国重文に指定。
 


33.
①軽井沢宿
 長野県軽井沢町旧軽井沢678(つるや旅館)
 旧軽井沢銀座通り=軽井沢町大字軽井沢541
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②追分宿
 長野県軽井沢町追分662(堀辰雄文学記念館)
①江戸から数えて18番目の宿場で信濃国に入って最初の宿場。大変賑わっていたが宿駅制度が廃止され国道が開通すると旅人の往来が無くなり急激に衰退。その後、別荘地として再び賑わいを取り戻したがその分、往時の面影は失われた。 軽井沢付近には軽井沢宿のほか沓掛宿・追分宿が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。また浅間山を望む景勝地としても有名。その後軽井沢宿・沓掛宿は洪水や火災に遭った上、大規模開発もあり宿場町時代の街並みは失われた。
②中山道と北国街道の分岐点であった追分宿は宿場町の面影のある街並みが残っており往時の様子を知ることができる。
 

33軽井沢宿


34.
志賀城
 比高170m
 長野県佐久市志賀字城
①小田井原の戦い
 佐久市御代田町小田井
 難易度2
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 凄惨、血塗られた佐久侵攻戦が行われた城だが築城年代は不明。天然の岩肌も露出する急峻な山上に笠原氏が築いた。1540甲斐の武田氏が佐久へ侵攻し1545頃には郡内の諸城で残るはこの城の笠原清繁のみとなっていた。1546武田信玄26才自ら5千で佐久へ侵攻すると関東管領上杉家の家臣で上野国菅原城主高田憲頼父子が援軍で守備を固めた。さらに上杉憲政は金井秀景を大将として3千の援軍を送ったが小田井原で武田氏と合戦となり上杉軍は大敗(死者2千)を喫した(小田井原の戦い)。救援の望みを失った志賀城は清繁、清仲父子は自害、高田父子は討ち取られ城中300余名は決死の突撃で壮絶な討死、落城。信玄は佐久郡の制圧を完了。城へは志賀集落にある雲興寺の東側から墓地へと続く道が山頂まであるが整備不十分で危険。また寺前の県道を東へ進んでいくと北側の水田にポツンと宝篋印塔が残るが清繁の首塚と伝わる。
 

34小田井原


35.
佐久長聖高校
 (生徒数:約1050名)
 長野県佐久市岩村田951
 長野県佐久市にある私立高校。1964年に開校し1995年からは中高一貫校。類型別授業が行われており、東京大学や国公立医学部などの最難関大学への現役合格を目指す「I類」、大学進学とハイレベルな部活動の両立を目指す「U類」、中高一貫教育のもと6年間で効率的な学習を目指す「V類」の3つのコースが設置。部活動は2016年時点で7回の夏の甲子園出場実績を持つ野球部のほか、2008年に全国制覇を達成した駅伝部や12回のインターハイ出場を誇る女子バスケットボール部など全国レベルの部活動が多数。出身有名人はロンドンオリンピック出場した陸上の佐藤悠基選手がいる。
 女子高校生サッカー部員との会話:年末の駅伝強豪校なので寄ってみた。放課後のクラブが始まるタイミングだった。これからマイクロバスで軽井沢まで練習に行くのだと言う。奈良から「女子サッカーも駅伝と同じくらい有名になること応援してる」と告げると喜んでいた


宿泊5 5月19日(木)
佐久平プラザ21
 長野県佐久市佐久平駅東2-6
 TEL 0267-65-8811
 P無料
 おまかせプラン/夕朝なし 禁煙 ダブルベッド◇バス無トイレ付 5800円税込み 7種のお風呂と2種のサウナ無料!冷蔵庫付き
 希望:禁煙・ウオシュレット・静かな部屋・駐車場使用します。
 口コミ:周辺に飲食店、スーパーが多く便利


歴史探訪 佐久 野辺山 伊那 飯田

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六日目・クリックで開きます


36.
龍岡五稜郭
 続日本100名城
 国史跡
 長野県佐久市田口2975-1
 であいの館(定休:火曜日)
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 完成は函館五稜郭1864から3年後で日本に2つしかない星型稜堡の洋式城郭。江戸末期に三河国奥殿藩の藩主(1万6千石)・松平乗謨は分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得て1864着工、1867竣工。フランスで考案した稜堡式築城法で突角部に砲座を設け各稜堡から十字砲火で攻防することを目的とした。しかし周囲の山から砲弾が届く距離であるなど軍事施設としては問題を抱える。実戦に備えた要塞ではなくあくまでも藩主居館として設計されたもの。廃藩後明治5年(1872)城は取り壊されたが堀と土塁、建物の一部「お台所」が城内に残る。函館五稜郭に比べ規模は約半分。
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37.
海ノ口城(うんのくちじょう)
 比高210m 難易度3
 長野県南牧村海ノ口大字海ノ口
 現在林道は峠付近通行不可なので途中までか?
 築城時期、廃城時期など不明。甲斐に備えた境目の城で佐久地方南部を支配していた豪族・平賀源心の出城。平賀氏は鎌倉幕府の有力な御家人となって中央で活躍していたが佐久では1400信濃守護の小笠原長秀の系統の大井氏と争った。その後平賀氏は平賀城の城主で武田氏ともしばしば戦火を交えた。1536武田信虎は8千の兵を率いて出陣。平賀成頼2千の立て籠もるこの城を攻めた。36日間の包囲するも陥ちず冬の到来で信虎は撤退。この際、信虎嫡男、晴信(信玄)は初陣であるが殿軍を申し出て兵3百を率い城に奇襲を掛け落城。源心討死。以後武田氏の信濃国攻略の中継地、兵站基地となる。駐車場から山頂まで徒歩約20分。
 
 
 


38.
野辺山駅
 (標高日本一1,345m)
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 長野県南牧村大字野辺山306
 観測所:野辺山462-2
 小諸駅と小淵沢駅を結ぶ小海線沿いに位置。目の前に登山者に人気の八ヶ岳が広がり、主峰「赤岳(あかだけ)」も見える。大迫力の山々と高山植物の宝庫でシーズン中多くの観光客あり。野辺山駅と清里駅の中間には世界一の精度・大きさのパラボラアンテナを備えた「国立天文台野辺山宇宙電波観測所」がある。標高1,000〜1,400mの「清里高原」は多くの観光・体験スポットがあるカントリーリゾート。
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39.
御堂垣外(みどうがいと)の本陣門
 長野県伊那市高遠町藤沢御堂垣外
 江戸時代1684年から高遠藩領の宿場町。正式名称は「伊那街道御堂垣外宿」。1725お茶屋を廃してこの街道唯一の本陣を新設。脇本陣はなく問屋が代りを勤めた。今でも本陣跡には御門が残っている。この街道を参勤交代に利用した大名は高遠藩・飯田藩や旗本達など。現在も国道152号線沿いに往時を偲ばせる土蔵や旅籠建築が並ぶ。


40.
仁科盛信墓
 長野県伊那市高遠町勝間
 武田信玄の5男(勝頼の弟)で仁科家の家督を継いだ。1582織田信長の嫡男信忠が5万の大軍を率いて信濃へ侵攻。高遠城の兵はわずか3000。大島城の武田信廉などはたいした抵抗もせずに城を破棄して甲斐へ引き上げるなか仁科盛信は城に籠もって信忠の開城勧告も無視して徹底抗戦した。しかしわずか一日で高遠城は落城し盛信は自刃。享年26才。墓は高遠城の南に聳える五郎山山頂(比高約200m)にある。白山トンネルの長谷方面出口付近に五郎山に登る車道(分かりにくい)があり山頂付近まで車で行ける。車を降りて登山道を徒歩3分で墓と石像有り。盛信の死から9日後勝頼も天目山で自害、武田家は滅亡した。
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41.
天空の村「下栗の里」
 「日本の里100選」
 長野県飯田市上村1040
 152号線から山道を約8km。対向車に出会う心配なし
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 長野県の山奥にある天空の村「下栗の里」は、南アルプスを望む飯田市上村の東面傾斜面にある標高800m~1,000mの地区。最大傾斜38度の斜面にはりつくように民家や農地が並ぶ絶景地で遠山郷を代表する景観。つづら折りの坂道を抜けて到着するのが食事処はんば亭も併設する下栗の里駐車場。ここを拠点に眺めや里歩きが楽しめる。こんな場所に数十戸の集落が点在することに驚く。駐車場から徒歩20分で絶景に出会えるビューポイントから見おろすとまるでミニチュアに見える。景観の美しさ、自然と暮らしの調和、こうした姿がオーストリア・チロル地方に似ていることから「日本のチロル」と呼ばれる。下栗の歴史は不明だが隣接する中根地区で縄文土器が出土していることからここも既に人が生活していたと推測される。鎌倉武士が分け入り定住したとも言われる。その後、遠山氏の治めるところとなり現在に至る。江戸時代後期から人口は増えて多いときは300人を超えた。原則:•坂道でのすれ違いは上り車が優先。•車もバイクもライトを点灯して通行。下栗に宿が三軒ある。1泊2食 7,600円~
 

41遠山


宿泊6 5月20日(金)
道の駅「遠山郷」
 長野県飯田市南信濃和田548-1
 TEL 0260-34-1071
 10:00~21:00 木曜休み
 普通車:104台 標高400m
 2005開駅。ヒノキを贅沢に使った木の香りにあふれる自慢の駅舎。南アルプスと伊那山脈の山峡を走る国道152号(青崩峠・地蔵峠が未通で林道使用)沿いの飯田市南信濃にある。日帰り温泉施設(露天風呂・各種の風呂を備えた天然療養泉「かぐらの湯」620円)、レストラン、直売所、観光案内所、足湯が併設。お勧め:ジンギス丼(1000円)
 ここは遠山郷の中心地で遠山地方を治めた遠山氏の本拠地。居城和田城の城下町。城の隣にある龍淵寺(りゅうえんじ)は1521遠山氏の菩提寺として開山。


歴史探訪 浜松 新城

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42.
高根城
 比高173m 難易度1
 静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼ)地頭方230
 P20台
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 今より600年前の南北朝時代に国人領主奥山定則が後醍醐天皇の孫・伊良親王を守るため標高416mの山上に築城。麓には河内川と水窪川が流れ天然の堀で絶好の立地。その後、奥山氏は今川氏に属して勢力を広げたが桶狭間合戦後に今川氏が没落すると一族は内部分裂。1570年~1573には武田氏が遠江に侵攻、城も武田氏の手に落ちた。1572信玄が西上した際、2万5千の大軍が青崩峠・兵越峠を越えて高根城下を通過、二俣城を抜けて三方ヶ原の戦いで、徳川家康を破ったのは有名な話。武田の軍勢も茅野からはるばる良く来たものだと感心。現在は史跡公園で登山道が整備された。向市場駅から南方に入って行くと案内板がある。登山口から本丸まで約20分。町が一望できる。
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42高根城


42-1.
山住神社
 静岡県浜松市天竜区水窪町山住230
 スーパー林道天竜線:53km(道幅1車線と狭いが全線が舗装)
 神苑には樹齢約1300年の老杉が2本茂り、初夏の頃より仏法僧の鳴声が聞こえる。標高約1107mの山住峠の山頂にあるこの神社の起こりは709年に伊予の国(愛媛県)大山祇神社を勧請したと伝わる。1572徳川家康が三方原の戦の際に武運長久を祈願しその後奉納された二振りの刀剣は宝物として神庫に納められた。太平洋戦争の終わり頃まで県社にも指定、北遠の山頂には珍しい荘厳な社。スーパー林道天竜線は風光明媚。


42-2.
秋葉山本宮秋葉神社
 静岡県浜松市天竜区春野町領家841 (上社)
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 東海随一の霊山との呼び声も名高い秋葉山(885m)を神体山と仰ぎ山頂に上社、山麓に下社が鎮座する古社。火防の神で知られた全国にある秋葉神社(400社)の総本宮で創建は709年と伝わる。中世には「秋葉大権現」と称してその御神徳は国中に知れわたり朝廷からは正一位の神階を賜り著名な武将からも数多くの名刀が寄進された。更に江戸時代には全国に秋葉講が結成され、街道は参詣者で賑わった。今なお古式の祭儀がそのままに営まれ、全国津々浦々より崇敬されている。
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42-3.
清瀧寺(せいりゅうじ)
 (徳川信康霊廟)
 信康(21才)は徳川家康公の長男で織田信長に謀反の疑いをかけられ二俣城で切腹した悲運の武将。母は今川家の一族関口義広の娘築山御前だが信康切腹17日前に浜松移動の途中に討たれた。寺は二俣城の尾根つづきにあり近く天竜川から城に水をくみ上げた井戸櫓の復元あり。
 
 
 
 
 
 


43.
新城城
 大善寺(亀姫の墓)
 愛知県新城市石田万福
 大善寺:新城市西入船22
 長篠の戦いに勝利した後、奥平貞昌は信長の信の字をもらって信昌と改め、1576家康の命により新城城を築城。長篠城からこの新城城に移り住み家康の長女亀姫(後の盛徳院)を正室に迎えた。その後新城城は一時天領にもなりながら1648菅沼定実が丹波亀山から7000石で入城し、明治まで続いた。現在は空堀のみを残すものとなっており他の土地は市役所、中学校、小学校となっている。
 近く葵の紋を使用した大善寺には亀姫の墓(五輪塔)が残る。さらにこの寺は菅沼家の菩提寺でもあり初代定実から11代までの歴代墓が残る
 
 
 


44.
野田城(信玄が攻めた最後の城)
 別名:根古屋城
 比高18m
 愛知県新城市豊島竜谷 5-14
 野田城駅から徒歩15分
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 1505菅沼氏が南東に向かって半島状に伸びた台地上に築城。1572年9月、武田信玄は西上作戦を発動し徳川家康の所領に3万の軍勢を率いて攻め込む。1573年1月三河へ進入。徳川方の三河における属城の1つである野田城を包囲。この城は小さな城だが河岸段丘の地形を利用したもので攻め口が限られ武田の大軍を相手にするには有利な構造。武田方は力攻めにはせず水の手を切り落城に追い込む作戦を採った。結果、城兵の助命を条件に開城降伏した。が信玄は持病が悪化、甲斐へ引き返しの途上「駒場」で没した。現在は本丸が間伐され井戸や土塁などの遺構が見学可能で公園として整備されている。本丸へは道路に面した場所に案内板がありそこから階段を介して入れる。本丸の西側に「信玄を狙撃した場所」と伝わる所がありその対岸の法性寺の上の所に「信玄が狙撃された場所」と伝わる場所があり案内板もある。
 


宿泊7 5月21日(土)
道の駅「つくで手作り村」
 愛知県新城市作手清岳ナガラミ10−2
 標高530m
 0536-37-2772
 9:00~18:00 無休
  普通車:117台
 山道をくねくねと曲がって標高550mの高原にある。手作り村の基本コンセプトは「農業・自然・手作り」。新城市の農林業と豊かな自然、都会では味わうことのできない素朴さや、やすらぎを体験できる。お勧めは人気の五平餅、ハヤシライス800円など。近くに作手歴史民俗資料館(新城市作手高里字縄手上35)がある。入館料無料。昔の民具やはく製の鳥たち、作手の歴史に関するものが時代ごとに展示されている。


歴史探訪 作手

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45.
三河亀山城
 別名作手城 比高30m
 愛知県新城市作手清岳
 新城IC~車 22km(34分)道の駅「つくで手作り村」駐車場利用
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 1424奥三河に勢力を張った土豪、奥平貞俊がそれまでの川尻城が手狭で築城。以後165年間奥平氏5代の居城、江戸時代には作手藩1万7千石として松平忠明が城主。現在、城址は縄張りがほぼ当時のまま残る。本丸を中心に各種の曲輪、土塁、空濠を確認することができる奥三河屈指の平山城。ここからは石橋城、文殊山城、塞之神城、古宮城、川尻城が見渡せ、各々の城の距離感が近い。毎年、5月には火縄銃の演舞を行う「古城まつり」が開催。
 攻城メモ:道の駅側から階段があり本丸まですぐ。
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46.
甘泉寺(かんせんじ)
 (鳥居強右衛門の墓)
 愛知県新城市作手鴨ケ谷門前23
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 臨済正宗22世弥天永釈大和尚が1370開山。300年以上経た杉の巨木が生い茂る石段の参道は長い歴史を感じる。織田信長が葬ったと伝わる長篠の戦いで長篠城で磔にされた功労者、鳥居強右衛門勝商と夫人の墓があり位牌も祀られている。また境内のコウヤマキ(国天然)は日本最大の大きさで樹齢600年以上、1990「新・日本名木百選」に選定。
 
 
 


47.
古宮城(ふるみやじょう)
 比高25m
 続日本100名城
 愛知県新城市作手清岳(つくできよおか)字宮山地内
 (丘陵内の白鳥神社が城入口)Pから約5分
 馬出しを備えた武田流城の最高事例の1つ。1571武田信玄が奥平氏監視目的で築城。ここは東三河侵攻の拠点。城の規模は250m×200mほどで全山を要塞化し土塁の上や丘陵地の高台から敵の正面や背後、側面から弓矢を放つなど四方八方から大勢の敵に一度で対応できる防備に優れた縄張りが読み取れる戦国の名城。1573「長篠・設楽原の戦い」で織田信長と徳川家康の連合軍に武田勝頼が敗北、次第に武田氏の拠点城郭としての性格が失われていった。城郭南側中央部で東側丘陵に鎮座する白鳥神社の脇道の階段や登城道を通り両袖枡形の出入り口(虎口)を経由すると直ちに城の最高地点の主郭に至る。攻城メモ:文句なしの五つ星。作手歴史民俗資料館は朝10時開館。古宮城と亀山城のパンフレットが入手できる。(2020/11/22訪問)
自宅~約220km 所要時間約3時間 高速代約6200円

47古宮城


 

 このように、皆様の活動を支部ホームページでご紹介したいと思います。ご意見ご要望はこちらのお問い合わせまでお知らせ下さい。

 

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