宍道の追分

宍道町はその昔、山陰道27番目の宿場町であった。23番目の米子宿から、安来宿、出雲郷宿、松江宿とつながり、次は28番目の今市宿となる。
古代は「宍道駅(しんじのうまや)」が設置された地で、山陰道と雲南三郡および奥出雲地方を結ぶ、大原街道・出雲備後道が交差・分岐する追分である。
(追分とは本街道から枝線街道への分岐点をいい、馬や牛を左右に追い分ける意味から転じて、追分は行き交う者の休息地とされ、流通、商業の拠点として発展した)
江戸時代は、小豆沢家・木幡家・葉山家の本陣があったが、現在は木幡家が「八雲本陣」として公開されている。町の長さは200間、街道幅は4間とあり、その幅は今もそのまま残っている。
また、宍道は、宍道湖を利用した湖上交通も盛んで、海陸共に栄え、明治時代には交通運輸に関する家は町の25%にもなっていたという。
今でも追分の名残が残っている。旧山陰道と大原街道の分岐点(追分)には、右「大社」、左「廣島」の昔からの道標が残っている。
また、その追分を左に行くと直ぐに山陰線の踏切になる。その踏切の名称は「広島街道踏切」という。
(情報 和田森洋)

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