『 私の住む沖野ヶ原から消えた飛行場』

私の住む町東近江市沖野(沖野ヶ原)について紹介します。
私は(旧)滋賀県神崎郡永源寺町相谷で生まれましたが、永源寺ダム建設の影響もあり小学校5年生の時に旧八日市市の(現)東近江市沖野に転居しました。転居前に父親に八日市まで連れられて来た時、「この場所に陸軍飛行場と掩体壕(えんたいごう)があった」と聞いた事や当時は八風街道(現国道421号線)に物資運搬用鉄道路線の痕跡もあった事を思い出しました。私も66歳となり地域のまちづくり活動に携わる中で、我が町の歴史を省みる意味も含めて我が町、沖野(旧沖野ヶ原)を紹介しましす。(※今回の紹介内容等には一部ネットより引用がある事を付け加えておきます。)

旧陸軍八日市飛行場
八日市飛行場は、東近江市の沖野ヶ原と呼ばれる一帯に、大正4年頃に国内初の民間飛行場として設立されました。その後、運用の面から陸軍が誘致に乗り出し、大正11年頃に国内3番目の陸軍飛行場となり、太平洋戦争まで使用されました。
 飛行場ができた理由として、沖野ヶ原は1万年以上前の愛知川の氾濫原で水はけがよく、地形が平らで、風を受けやすく、江戸時代から大凧まつりが行われるような場所であることが挙げられます。また、国内で飛行機が入ってきたばかりの頃で、先鞭をつけようと地域の人々が私財を投じて誘致運動を起こして成功しました。

現代につながる、新たなまちづくりが始まったのです。
飛行場を中心として、軍関係施設が作られ、湖南鉄道(→八日市鉄道→近江鉄道)飛行場線が敷かれます。また、現在の東近江総合医療センターは、元は陸軍病院でした。
現在の工場や道路は飛行場の施設の敷地を利用し、その地形は地図などから確認できます。

 

周辺戦争遺跡を紹介

 

 

 

 

 

 

八日市旧飛行場掩体壕

 八日市飛行場の周辺には、昭和19年頃、飛行機などを隠すための掩体壕が作られました。現在は、布引丘陵沿いに残るのみで、埋蔵文化財包蔵地としては「布引掩体群」と名称つけられています。
 遊歩道沿いに、コンクリート造ドーム型掩体や木製ドームを支えたコンクリート基礎など、17基が残ります。戦後、陸軍からそのまま土地所有者へ返還され、個人では解体できずに残ったものです。
b戦後の復興により、今では飛行場があったということはなかなか想像できません。戦争を知る方々が少なくなる中、いわゆる戦争遺跡は、その記憶を目の当たりにできる大きな役割を果たし、その重要性は益々高くなっていくと思います。

旧八日市市時代に作られた説明看板

布引掩体群 掩体壕の大きさと今の保存状態がお分かりになるのでは

掩体壕を散策の遊歩道

  2021年4月  東近江市在住住  今若 信雄さん

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