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パナソニック創業者と霊山歴史館

※編集者記:この投稿は「役員からの一言」より「会員のページ」に移設した記事です。(2022/10/17)


パナソニック創業者と霊山歴史館
 現在、私の職場は、京都東山にあります幕末維新ミュージアム『霊山(りょうぜん)歴史館』です。パナソニック創業者が遺された施設としてパナソニックをはじめ多くの企業に支えられ運営されています。
今回、特別に、平成生まれの霊山歴史館学芸員 米澤 亮介(よねざわ りょうすけ)さんより、歴史館の生い立ちについてご紹介していただきます。

 ※米澤 亮介さんのプロフィールは こちら


霊山歴史館学芸員の米澤亮介と申します。
何卒、よろしくお願い申し上げます。

 霊山歴史館は、東山三十六峰の一つに数えられる「霊山」という山の中腹に建てられています。霊山という名前は、お釈迦様が『法華経』や『無量寿経』を説いた天竺の「霊鷲山(りょうじゅせん)」に、山の形が似ているため付けられたといわれています。別名を「鷲山(わしのやま)」、「鷲尾山(わしおのやま)」と言い、お釈迦様所縁の霊峰に似ているということで古来より神聖な地とされてきました。

 それが幕末に至り、文久2年(1862)には霊山で嘉永6年(1853)の「黒船来航」以降、国事に奔走して亡くなった志士たちのお弔いが行われます。
霊山は洛外に位置してるため幕府の目が届きにくく、祭祀の催行や墓の造営にうってつけの場所でした。そのためこれ以降、多くの志士のお墓が建てられます。

 明治維新を迎えた後、霊山の管理には殉難志士の遺族たちが携わり、また国の援助も受け祭祀が執り行われました。しかし第二次世界大戦で敗れると、GHQの指導で政教分離策がとられ、国の援助が受けられなくなります。
 そのうえ台風などの自然災害にも見舞われ荒廃しますが、現状を憂いた地元の有志が当時松下電器産業の会長だった松下幸之助のもとへ相談に行き、そのような場所があるならばと、幸之助の呼びかけで一帯の整備がなされます。

 そして志士たちの事績を伝えるため、昭和45年(1970)に「霊山歴史館」が建てられ、幸之助自ら初代館長に就任しました。

 霊山歴史館の入口、門扉の脇には幸之助自ら揮毫した館の理念を刻んだ碑が建てられています。
近代日本を開化せしめた 維新の志士の尊い精神を学び この国の歴史と伝統に立って あすの日本を考えるために心をこめて若き人びとにおくる
 歴史学を通じての社会貢献、この理念が理想で終わらないように、職務にあたっています。

 また館内では、「坂本龍馬を斬った脇差」をはじめ、新選組局長・近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろう みなもとの すけよし)」、新選組副長・土方歳三の愛刀「大和守源秀國(やまとのかみ みなもとの ひでくに)」、徳川慶喜や木戸孝允(桂小五郎)の書に西郷隆盛の肖像画など、倒幕派・佐幕派を問わず約100点の資料を展示しています。

 京都にお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
皆様のご来館を、心よりお待ちしております。

※『至成通天』の意味は こちら

(西宮東部地区 塚原 繁)

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