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仮想ウォーク 「平安京大内裏の案内板めぐり」

これまで日光街道、甲州街道、東海道と3つの仮想ウォークを作ってきました。
今回はリアルウォークとしても利用できる平安京大内裏の案内板めぐりを作成してみました。
以前に掲載した「一人でできる京都」シリーズの一つと考えていただいてもいいかと思います。
京都在住の方も、京都を訪れた方も、京都散歩の一つとして参考にしていただければ幸いです。
平安時代の大内裏の一部を再現した平安神宮内裏に相当する京都御所を観光した際に、
1200年前に実在した大内裏・内裏の跡を見て回るのも興味あることだと思います。

下の2つのpdfファイルをダウンロードして、案内板を回って当時を想像してください。
https://www.shoai.ne.jp/kyoto/wp-content/uploads/sites/27/50f4ecc17d9a402aad42b0aff9b58d5c.pdf

https://www.shoai.ne.jp/kyoto/wp-content/uploads/sites/27/6472a68dc797bea463d723f60f13cfb8.pdf

素人のにわか知識で作成したものですので、間違いや不正確なものもあります。お許しください。
使用している地図は、国土地理院発行の白地図を利用しています。

 

 平安京の位置

平安京は、794年から1869年まで日本の首都として機能した都市です。
北は一条通、南は九条通で南北5.2km、東は鴨川、西は桂川に挟まれ東西4.5kmありました。
朱雀大路が、九条通にあった羅城門から大内裏の正門である朱雀門まで南北に通っていて
東を左京、西を右京と分けていました。
朱雀大路の北の延長上ある標高112mの船岡山は、平安京遷都にあたって平安京設計の
基準点となったといわれています。

1467年に始まった応仁の乱で京都は荒廃しましたが、1591年豊臣秀吉が御土居を建設し、
御土居の中を洛中、外を洛外とし、洛中を京都と定義しました。

 

大内裏は、国会議事堂・霞が関・最高裁判所に相当し、内裏は天皇の私邸である皇居にあたるものです。

大内裏は現在の地図では、北は一条通、南は二条通、西は御前通、東は大宮通に挟まれた東西約1.2km、
南北約1.4kmで、現在の京都御苑の約2倍の大きさでした。

当時の内裏や大内裏は十数回の火災にあい、1227年の火災から再建さていません。
その後足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して光厳天皇・光明天皇を立てた場所が東洞院土御門邸であり、
60年続く南北朝時代の北朝の皇居となり、南北朝が統一された後も江戸時代が終わるまで続きました。
それが現在の京都御所で、当時の内裏に相当します。

大内裏の一部としては、応天門・大極殿を5/8の大きさで再現した平安神宮が岡崎の地にあります。
応天門を入ると左右の建物が役人が控えている朝集堂で正面の大極殿との間には、役人の仕事場である
十二朝堂(朝堂院の一部)がありましたが、それは再建されていません。ずいぶんコンパクトに再現したものですね。

内裏は、大内裏の中央より少し北東にあり、南北は現在の下長者通、椹木町通の間、東西は智恵光院通、千本通に挟まれた約300mX200mの範囲にありました。

 

 

大内裏と内裏の建物配置です。
赤字で記したものは案内板がある建物です。
それぞれの建物がどういう役目のものかは案内板を読んでください。
平安神宮の応天門に相当する当時の門の案内板は見つかりませんでした。残念。
紫宸殿は天皇が政務を行った場所、清涼殿は天皇の寝所、弘徽殿は天皇の正妻(皇后=中宮)が居た建物です。
桐壺は、源氏物語では「桐壺の更衣」が居た建物ですが、それは架空の話です。
中宮(=皇后)、女御、更衣の順で、更衣は天皇の奥様の中では地位が低い身分です。
(私は源氏物語を読んでいません。間違っていたらすみません。)
(参考文献 :  京都市情報館 歴史資料)

      

 

 


さぁ、案内板めぐりを始めましょう。
上記の2つのpdfファイルでは、記載されたものを全部回るために同じ道を行ったり来たりでしたが、
一筆書きで回る方法はあるのでしょうか?
スタートはJR二条駅です。ロータリーには2か所案内板があります。
ゴールは京都御所の正門建礼門です。

 

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