『 滋賀湖北の史記(四季)』


私の住む湖北とは、滋賀県北東部のことで。琵琶湖の東岸、米原市以北を言います。滋賀県の全面積の23%を占め、行政区画は長浜市と米原市の2市からなります。
北で福井県嶺南、嶺北、東で岐阜県西濃、南で湖東地域と接します。この地は関ヶ原を越えて中山道が、若狭よりは北国街道が通り、琵琶湖の湖上水運と交わる交通の要衝でした。古来、この地を舞台にして数々の兵乱があったのは、その地理的重要性を示すものと言われています。

 湖北は、北国街道の宿場町として羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備し、以来の湖北地方の中心地で長浜城の廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展した姉川古戦場など戦国時代の史跡が多く、国友は近世に国内有数の鉄砲生産拠点として栄えました。現在はノスタルジックな町並みの黒壁スクエアが人気の観光スポットとして知られます。また、やすらぎに包まれる観音の里やびわ湖に浮かぶパワースポット「竹生島」、日本百名山の一つ「伊吹山」などの県内屈指の観光エリアは、訪れる人びとを湖国旅情へと誘います。
 又、湖北は交通の要素として知られ、古くから中山道と北陸道の分岐点として発達しました。米原が北国街道の米原宿に当たり、市域南部を東西に通過する中山道には氷川きよしの楽曲「番場の忠太郎」で有名な番場宿、醒井宿、柏宿の3か所の宿場町が置かれていました。また、現在でも国道8号と国道21号が分岐し
、米原JCTでは名神高速道路と北陸自動車道が分岐するなど交通の結節点としての役割を果たしています。
 それでは、湖北について見てみたいと思います。湖北には古くから歴史的な史跡や物語等が数多く残っています。それらを一度探ってみたいと思います。尚一部の文献・写真等は湖北歴史学会資料から引用させていただきました。

太古の湖北と息長氏

 息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族です。息長の名前がはじめてあらわれるのは、現存最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』です。古事記では、開化(かいか)天皇段に「息長水依比売(おきながみずよりひめ)」の名が、日本書紀では仲哀(ちゅうあい)天皇条に「気長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功(じんぐう)皇后)」の名がみえます。その後も、息長氏は天皇家に后妃を入れ、天皇の親族として国政や修史事業に携わりました。
息長氏の勢力拡大には、三つの段階があるといわれています。一つ目は、仲哀天皇の妃である神功皇后が息長氏の出身であることです。これは一地方豪族にすぎなかった息長氏が、やがて中央の政権に進出する大きな布石となりました。二つ目は、継体(けいたい)天皇への支援。近江高島の生まれで越前で育ったとされる継体天皇が、大和以外の出身者として即位した背景には、継体天皇の拠点である高島・越前と、支持基盤である尾張・美濃の両者を結ぶ要衝の地にあった息長氏が重要な役割を果たしているようで、これが息長氏繁栄の契機となりました。三つ目は、敏達(びだつ)天皇と広姫(ひろひめ)の婚姻です。息長氏出身の広姫が皇后となって、のちの舒明(じょめい)・天智・天武天皇へと系譜をつなげたことは、息長氏の勢力拡大の大きな要因となりました。さらに、壬申の乱では緒戦の激戦地が本拠地であったことから一定の功績があったとされ、勝利した天武天皇のもとで、天皇制の基盤を固めた皇親政治の一翼を担いながら、あわせて国史編さんに携わったことは、息長氏の名を正史の中に強くとどめておくことになったのでした。
 日撫神社からおよそ1.5km南西に山津照神社古墳があります。日撫神社のある米原市顔戸~山津照神社のある能登瀬の一帯は息長氏の根拠地でした。さらに、この地は、天野川の水運を経て琵琶湖南端の大津や北岸の塩津ともつながっていました。

 

 

湖国の戦国史
浅井氏の成長と六角氏の衰退
 湖北の武士たちの争いは、北近江の守護大名である京極氏の内紛とリンクし以後毎年のように小競り合いが続く。そして、京極氏が同族相争う中、浅井氏が勢力を伸ばしていき(浅井長政は長浜城ができるまでの時代に活躍した人物)、その中でも、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江の南部を支配していた六角氏という守護大名の支配下にありました。臣従関係だった六角氏と対立し野良田の戦い(現在の彦根氏野良田町及び肥田町)で見事勝利し六角氏を下しました。
同盟破棄と織田信長の包囲網
 織田信長は浅井長政に「同盟を組もう」と話を持ち掛けました、信長は越前国の大名朝倉義景とは不仲でしたが長政は以前から友好関係にあったので「朝倉氏には戦を仕掛けない」という条件を出し信長と同盟関係を結ぶ。信長は自らの妹である「お市」を人質とし長政の妻にし、その間に生まれたのが有名な三姉妹です。姉は茶々:のちの秀吉の側室で淀殿、次女は初:京極家で衰退した大名家を再興させる、三女は江:大河ドラマ「江」姫たちの戦国のドラマになる。三人とも結婚させられ、姉二人とは対照的に多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の上皇及び天皇まで続いている。
 しかし、信長は約束を破り朝倉に戦を仕掛けたので、長政は義景との同盟を重視し織田軍と戦ったが、その後近江国、姉川の戦いで織田軍の勝利に終わり、1573年信長はついに朝倉氏を滅ぼし、その足で小谷城にも攻め込み、長政は29歳の若さで自害し三代続いた浅井家は滅亡しました。そのころ横山城を守っていた木下藤吉郎が、お市と三人の救出したのです。

秀吉の長浜城が完成
 小谷城と長浜城は12キロ程しか離れていませんが、琵琶湖からは少し距離があり、交通の便が悪かったことから、秀吉は現在の長浜市である「今浜」に城を作り始めます。天正3年、遂に秀吉の城が完成し、地名を「今浜」から「長浜」に改名しました。秀吉はそれまで居た小谷城から長浜城へ移り住み、城持ちの武将となったのです。本能寺の変で信長が敗れた後、長浜城は一時的に柴田勝家(しばたかついえ)の甥、勝豊(かつとよ)が城主となりました。
長浜城のその後
 しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦の拠点としました。その後長浜城は山内一豊(やまうちかずとよ)を城主に迎えます。
 山内一豊といえば、知っておいでの方も多いと思います。戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕え、幾多の戦で功績をあげ、長浜(滋賀)掛川(静岡)の城主を経て土佐(高知)の殿様となった歴戦の武将です。特に「山内一豊の妻」の題材で取り上げられた。中味は、一豊の妻、千代は、貧しい暮らしの中で、夫が求めていた馬の購入費に鏡台の引き出しにしまっていた持参金を差し出しました。一豊はこの金で名馬を手に入れ、これが彼の出世の糸口ともなった。というお話しで”武人の妻の鏡”としてNHKの大河ドラマでも放映された。
豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は長浜城の遺構であると言われています。

近代へ
江戸時代の交通
 北国街道は、近江と北陸をつなぐ主要な街道で、彦根市下矢倉町で中山道と分かれ、長浜市を縦断して木之本を経て越前(福井県)に至る。一方、中山道の関ヶ原の宿から分かれて北上し、木之本で北国街道に合流する北国脇往還も北陸と中部、関東を最短距離で結ぶ道として重視された。参勤交代の大名もこの道を通った。

 

琵琶湖の水上交通
 江戸時代の琵琶湖の船着場は「四十八浦」とよばれるほど多くあったが、その中でも、北陸に通ずる塩津・海津・今津の三港と中山道方面に通ずる長浜・米原・松原の彦根領の三港、それに京・大阪に通ずる大津の港が特に重要であった。このように長浜は湖の北東部に位する一要港であり、米原・松原の両港と共に湖北・東海方面と大津をむすぶ役割を果たしていたことがわかる。彦根藩では軍事的な必要からもこの三港を普通「彦根三湊」とよび、特別に保護を加えていた。
 この三港の間ではそれぞれ船積みの区域がきまっており、長浜港は南は坂田郡の世継(旧、近江町内)から北は浅井・伊香郡の荷物または北陸脇往還を通って運ばれて来た東海地方の荷物を船積みすることになっていた。長浜は江戸時代を通じて商工業繁栄の地であったので、多くの物資の移動があり、この港は一層発達した。今に残る南船・北船・栄船等のいわゆる船町が当時の港湾区で、船乗、船大工等が多く居住していた。
 江戸時代までの物資の輸送は、船によることが大きく、特に「丸子船」はその主役であった。「丸子船」は、物資の運搬のための琵琶湖特有の形をした和船であった。
 大浦とともに、琵琶湖の北の玄関口として栄えた塩津。120軒もの問屋が並び、20軒を越える旅館や、30軒を越える飲食店など、「人が歩くにも困難な賑わい」と伝えられている。
 江戸期の民家はほとんど残っていないが、塩津海道にそって形成された町並みにその面影を見ることもでき、塩津神社などにもその風格が感じられる。

 

琵琶湖水運との接続駅
 明治初頭、日本の新旧首都である東京と京都を結ぶ鉄道路線を敷設するにあたりこの区間内で太平洋と日本海が最も接近する名古屋と敦賀を結ぶルートが優先的に計画された、ルートの詳細については京都と名古屋の間は山間を縫う中山道ルートに決められたが、その際に滋賀県内では琵琶湖の水運を代替として、当面の建設資金を圧縮する指針が立てられた。そのため、湖に面した港町に水運と鉄道の接続駅を設けることになり名古屋方面と敦賀方面の分岐点として、開設が決められたのが長浜駅であった。

 1889年(明治22年)4月16日からのおよそ3ヶ月間は、新橋駅―長浜駅・大津駅―神戸駅間が完成し東西幹線(後の東海道本線)の中継を担う存在となった。長浜駅―大津駅間は連絡船(太湖汽船)が運行されていた。しかし同年7月1日、岐阜側と敦賀側の鉄道分岐点として米原駅が建設されたほか、関ヶ原駅から米原駅を経て馬場(後の膳所駅)に至る湖東線が開業したことから、当駅は陸運と水運の接続点としての役目を終え、若狭や北陸へ向かう路線(後の北陸本線)の中間駅となった。

 このように時代と共に変化してきたが、まだまだ記載できなかった史記等が数多くあり、身近なところに知らない歴史等があります。私事ですが、わが家の隣の家は山内一豊の母の住まいです。現在は、空き家になっています。
滋賀湖北の四季
  次に滋賀湖北の四季を写真等で紹介したいと思います。天気予報で滋賀湖北地方は春から秋は近畿地方の中部で表現され冬は近畿地方の北部で表すそうです。これは日本でも珍しい地域となってるそうです。それでは紹介していきたいと思います。
湖北の春

湖北の夏

湖北の秋

湖北の冬

最後に
 
この様な、地域に生まれ育ち、歴史は古く、自然が多くアウトドアにもいっぱいあり、大変恵まれた環境で交通も便利(草津方面は少し遠いかな、いやいや新快速停車駅坂田駅まで歩いて3分位、贅沢かな)です。ただし、冬は雪が降り積雪が多くなると年を取ったら雪かきに大変しんどいです。
 そしてまだまだ紹介しきれないところもありますが、またの機会に。まあー、このような地域でぼちぼちがんばっています。
 2021年2月  米原市在住  沢邉 博士さん

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