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第62回「京都・学ぶ会」波多野元三郎様(当会会員)講演報告

 今回は、パナソニック松愛会(副会長)および京都支部(支部長)で長年に亘って要職を務められ、多大な貢献をされて来た波多野元三郎様に、ご自身の出生地に関係する『洛北・雲ケ畑に伝わる惟喬親王伝説』と題してご講演をしていただきました。現在86歳になられますが、大変お元気で前半と後半に分けて大いに語っていただきました。
 講演に備えて、今まで活動されて来た沢山の資料や写真を整理され、それらをA4:7枚の資料と46枚の写真にまとめられて、それらをベースにして大変分かり易くお話しをしていただきました。歴史に余り興味のない方にとって、惟喬親王(844~879or897:二説あり)は馴染みが薄いと思いますが、文徳天皇の第一皇子で、皇太子と考えられていたが、藤原良房の娘が産んだ第四皇子:惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子に選ばれたために、872年29歳で出家し、雲ケ畑で隠棲生活を送られたと伝えられています。
 雲ケ畑の歴史は、平安遷都の際に出雲の国から集められた人達が住み着いて、最初は出雲ヶ畑と呼んでいたのが、いつからか雲ケ畑になりました。地名の由来にはもう1説ありますが省略します。平安時代800年代に惟喬親王の身の回りのお世話をしたのが村の生い立ちと伝わっており、姓は出雲、小野⇒のちに波多野、鴨氏が多いです。江戸時代に入ると、鮎の献上や御所田の耕作などで朝廷に奉仕。明治以降は、人工林に着手したり、宮内省の御猟場の指定を受け、英国皇族を迎えた際に、その接待官として黒木大将、東郷平八郎大将も村に宿泊されています。波多野さんのお母様が東郷大将の接待をされたとのエピソードが紹介されました。
 その後、戦争による木材の強制伐採で、良質の北山杉が供出され山が変わってしましました。昭和~平成の時代は、木材の自由化で外材が流入し、建材の価格低下による不振と、ガス・石油革命で国内の林業は衰退の一途をたどりました。現在雲ケ畑には、63軒、138人が住んでいるだけで、小中学校共に生徒不足で休校中。林業だけでは収入が得られず町に働きに出掛けています。しかしその中で、地域活性化の活動が展開されており、波多野さんはどの活動にも積極的に参加されています。例えば、「山仕事サークル(杉良太郎)」→山の手入れ、雲ケ畑森の文化祭、松上げの応援。「雲ケ畑、足谷人と自然の会」→絶滅危惧種の保全活動、山の音楽会、野草観察会など。特に、伝統行事の「松上げ」に対する思い入れは、一方ならぬものがありました。これらの一連の活動への波多野さんの情熱は、まさに「郷土愛」そのものだと思います。公私にわたっての関わりには頭が下がります。
 後半は、ご本人のプロフィール紹介から始まりました。、学生時代から会社に入ってからもバレーボール選手として活躍される一方で、松下電器入社後は、何と17事業所を、主に経理社員として回られた経歴をお持ちです。60歳で定年退職後も「松下資料館」で10年間非常勤参与として勤務される一方で、松愛会の京都支部支部長や本部副会長を歴任され多大な貢献をされました。特に、「資金保全委員会」における長期資金運用による松愛会の財政安定化は大きな功績と言えます。また一方で、「その時松下の歴史が動いた 松下幸之助に学ぶ勉強会」を立ち上げられ、10年間、会社OBや各界からの講師による講演会、見学会と精力的に活動されました。その後は、「京都・学ぶ会」(2011年5月~)がその精神を引き継いで講演会活動を続けています。今回で62回目になります。
 最後に、これからも益々お元気で、地元、郷土(雲ケ畑)、松愛会等に対して大所高所からのご理解とご支援を引き続きお願い申し上げ、心からの御礼に代えたいと思います。有難うございました。

 

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