日本三大水攻め_紀伊・太田城址

日本三大水攻め、何れも豊臣秀吉が関わっています。関わったのには兵糧攻めや、水攻めが多く自軍の損害少なく相手側は残酷な結果となります。
・1582年(天正10年):(現在の岡山県岡山市)「備中高松城の戦い」
・1585年(天正13年):紀伊国(現在の和歌山県・三重県南部)「太田城の戦い」
・1590年(天正18年):武蔵国(現在の埼玉県・東京都23区・神奈川県の一部)「忍城の戦い」

備中高松城は本能寺の変の時、秀吉が攻めていた城で中国大返しで有名です。
忍城は歴史小説や映画『のぼうの城』で有名です。堤防決壊して落とせなかった城です。
太田城は他に比べ随分知名度が低いです。遺跡も殆ど残っていません。現在は殆どが住宅地です。
敗者は史跡や資料、あまり残さないのでしょう。
※雑賀衆に関しては、司馬遼太郎氏 の 歴史小説や、映画化で『尻啖え孫市』、歴史ドキュメントなどで度々放映されています。
戦国時代 に 鉄砲 技能集団として名高かった 雑賀党 を率いた雑賀孫市( 鈴木孫一 )を主人公にした作品です。
歴史物読むにつれ、豊臣秀吉は好きになれない人物です。圧倒的な兵力で日本三大水攻めや残酷な三木の干殺し、鳥取城の「渇え殺し」などもあります。
尤も豊臣秀吉だけではなく、他の武将も兵糧攻め、水攻めもしたのですが。

紀伊は寺社勢力や惣国など、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の地でした。
強大な根来寺僧兵集団の根来衆や惣国・雑賀衆等の、当時最強と言われた鉄砲集団による自治が行われていました。
織田信長の紀州攻めは、相当な反撃・被害にあい退却しています。

本能寺の変で斃れた「織田信長」の天下統一を踏襲した豊臣秀吉は、天正13年(1585年)、紀州攻めの大軍で、雑賀衆、根来衆、太田衆の連合軍を次々と破りました。
太田城は強固で中々落ちず、水攻めを行います。
籠城すること1ヶ月、ついに太田左近らは降伏を申し出、太田左近をはじめ53名が自害したとあります。

太田城址は、JR和歌山駅東口の近くです。本丸跡が来迎寺という寺です。
水攻めの時の堤跡は、出水(堤防決壊し出水したのでこの地名がついたようです。)に一部残っています。
太田左近像は、JR和歌山駅東口、来迎寺:太田城跡の碑、慰霊碑・小山塚・毘沙門天は、和歌山市太田(JR和歌山駅東口より、徒歩約8分)です。
大立寺は、和歌山市橋向丁、水攻め堤防跡は、きのくに信用金庫出水支店東側です。

(和歌山・石山)

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