枚方の神社 第5回 『御殿山神社』

第5回 『御殿山神社』

2013/5/24 取材

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 枚方発見神社シリーズの第5回目として、「御殿山神社」を参拝し取材しました。この神社は京阪電車本線の御殿山駅で下車し、東側の急な勾配の坂道を約300mほど登り切った所にあります。すぐ横には市立御殿山生涯学習美術センターや、御殿山公園もあり、見晴らしの良い丘の上の鎮守の森と言った表現が似合います。

 正面の鳥居を潜り、新緑の木立をくぐって社務所に案内され、宮司の片岡伸介様から懇切丁寧な説明を受けました。尚、片岡様は東京藝術大学の音楽学科卒の現役のオペラ歌手でもあり、脚本・演出も含めた舞台コーディネイトの肩書きを持たれる極めて多忙なお方であります。「御殿山の森の混成合唱団」の指導もされています。

朝陽の中の「第一の鳥居」

【御殿山神社の概要】

所在地 枚方市渚本町12-55
京阪電車(本線)御殿山駅 徒歩 7~8分
境内の敷地 約 6,000坪(御殿山公園などを含む)
祭神 ・八幡大神【品陀和気命(ほんだわけのみこと)】=応神天皇
・稲荷神社・・稲荷大神【宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)】= 豊宇気比賣神(とようけひめのかみ)
・貴船神社・・貴船大神=高龍神(たかおかみのかみ)】
創建 ・西粟倉神社から遷宮し御殿山神社と改称
明治3年(1870年)9月19日
主な年中行事 ・例 祭(秋季大祭) 10月19日
・春 祭(さくらまつり) 4月15日
・月次祭 ・・・ 毎月1日、15日
・大祓式 ・・・ 6月30日、12月31日
・その他諸祭

【御殿山神社の由緒】
 御殿山神社は、枚方市渚本町(旧大字渚)の通称御殿山の丘上に鎮座している。丘からは氏地を見下し、淀川を隔てて山城・摂津の緑美しい山々が見える素晴らしい眺めである。御本社には、応神天皇(品陀和気命・・ほむたわけのみこと)を祀り、境内に稲荷神社、貴船神社の二つの末社があり、氏地は(旧)大字渚一円である。
 御殿山の名称は、惟喬親王が渚院を別荘とされた時、この山上に休憩所を造られたのでこの様に名付けられたとか、さらには江戸初期に永井伊賀守が領地支配のため、この山に陣屋を建てたからとも言われている。
 その昔、惟喬親王が交野原で猟を楽しまれる時には渚院の別荘に来られたが、親王が俗世間を離れ小野の里で静かに暮らされるようになってからは、渚院の邸も荒れ果てた為、それを寺院に造り改め、後世にこれを観音寺(真言宗)としたのである。その渚院の跡は今も氏地の渚元町(旧大字渚北之町)にあって、鐘楼と寛文元年(1661年)永井伊賀守の家臣で杉井吉通が建立した「河州交野渚院碑」が残っている。
 この渚院の邸内跡には、観音寺北隣の栗倉神社の御旅所があった。その栗倉神社は、元和二年(1616年)に小倉村に社殿を造営し、新たに八幡大神即ち品陀和気命(応神天皇)を勧誘し、八幡宮として小倉村・渚村の二村の神社と仰ぎ奉り、文政年間に更に拡張改築された。その頃より渚村に独立した神社を勧請しようという話が起こり、前記の栗倉神社の御旅所に八幡大神を渚の神社として齋き(いつき)祀り、これを西栗倉神社と称した。明治二年に当地に社殿を造営し、明治三年九月十九日に西栗倉神社のお社から御殿山に御遷宮せられて御殿山神社と改称し、現在に至っている。
 拝殿内には遷宮時の様子を描いた縦76cm、横176.5cmの絵馬(現在は枚方市指定文化財)が奉納されているが、それには西粟倉神社から御殿山の新社殿への賑々しい祭礼の行列が描かれており、遷宮がいかに盛大なものであったかを知る貴重な資料である。社殿は割拝殿の背後に幣殿(廊下)と本殿が建てられ、本殿は奈良を中心に近畿地方に多く見られる型通りの一間社流造である。幣殿は大正4年に梁間が拡張されているが、本殿・拝殿は当初のまま伝えられている。尚、前身社殿のものとみられる銅製の釣燈籠が幣殿に残されており、「河州/交野郡渚村/北町内安全/嘉永6年/癸丑9月吉日/世話人若中」の透彫を確認できる。

【渚院(ナギサのイン)物語】

 御殿山神社の歴史を遡っていくと、その前身でもあり極めて関係の深い渚院を忘れてはならない。光仁天皇が宝亀(ほうき)2年(771年)交野に行かれたことで、皇室が交野ケ原と深い関係を持つ事になったのが始まりで、次の桓武天皇(737~836年)は樟葉の藤原継縄(ふじわらのつぐただ)の家で身支度をされ交野ケ原で遊猟した際、渚院を御旅所にしたと言われている。「渚院碑」には嵯峨天皇(786~842年)の「渚院を頓宮(御旅所)とす」と刻まれている事から、渚院は嵯峨天皇以前から存在していたことになる。
 さて、文徳天皇(827~858年)の第一皇子である惟喬親王は、推仁親王【後の清和天皇(850~876年)】との皇位争いに敗れ、また親王のお気に入りの家臣であった在原業平も気ままな性格が災いし、出世はできなかった。そんな不遇の中にある二人は、渚院や対岸の水無瀬の離宮で遊猟や酒宴などを張り、和歌など詠んでその憂さを晴らしていた。
 「伊勢物語」には【今狩りする交野の渚の家、その院の桜ことおもしろし。その木の元に居りいて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌詠みけり 馬の頭になりける人のよめる】【世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし】とある。渚の家とは渚院、馬の頭とは在原業平をさす。渚院はそんな悲運の人の悲しい遊興の場でもあった。この頃、枚方一帯は野鳥が多く狩場としては一等地であったが、一般の民が乱獲せぬよう野鳥の狩りを禁じている。その時この辺りの地名を「禁野」と言い、今でもそれが町名として残っているのである。
 しかし、貞観14年(872年)惟喬親王は出家して比叡山の麓で静かに暮らされるようになり、それ以後渚院は寂れ、時と共に華やかであった当時の姿はなく、一小堂と神社だけになった。この小堂が観音寺と言う真言宗のお寺となり、神社は粟倉神社と呼ばれたが、後に明治初期の神仏分離でお寺は廃寺となっている。
 惟喬親王が馬を繋いだと伝えられる「駒留松」や、大切にされた「ちもとの桜」といった桜樹があり、松を抜ける風は人のこころを揺さぶり、桜樹は春天に花を開いて親王がご健在だった昔を偲ばせたと言われていた。しかし、惜しいことに今は名のみが残り、渚院会館裏の金網フェンスの中にひっそりと鐘楼と石碑が残っているのみで、当時の面影はない。 ここは河内西国三十三か所十六番札所となっており、詠歌に【きてみれば 渚の院は名のみにて 昔をしのぶ 梅さくらかな】と詠まれている。

※「枚方の民話 枚方に伝承される『悲しみを和らげる日々』というお話 ・・・」もご覧ください

【粟倉神社】
 前記の通り、御殿山神社と極めて関係が深い粟倉神社であるが、現在は小倉町南端にある公民館近くの住宅地の中に鎮座され、見つけるのに苦労する。宮司さんも居られない小さな神社である。元和2年(1616年)に旧粟倉郷、後の小倉村・渚村の産土神として応神天皇を勧請し仰ぎ奉り、文政年間には社殿が拡張改築されている。この神社の御旅所が渚院邸内址の観音寺の隣にあり、それを西粟倉神社とし、遷宮されて御殿山神社となり現在に至っている。
 明治42年には片埜神社に合祀されたと言われているが、今は旧地のこの地に帰っている。崩れ落ちそうになっていた鳥居は、氏子さんによって平成3年にきれいな石造りに建て替えられ、神社内はきれいに掃除されている。今でも地元の産土神として大切にされていることが伺われる。

【地域との連帯活動で次の世代への神社に】

 過去、御殿山神社は初詣の人出もあまり多くはなかったが、ここ数年地域の町内会などと連携し、地域に根付いた神社作りに努めた結果、今年の初詣客は1時間以上並ぶ多くの人出となった。
 また、片岡宮司様は青少年育成メンバーの一人としても活動しておられ、隣接する御殿山公園(神社の土地を市が借用)も含めた子供たちによる紫陽花の植え付け、祭りでの100円店の開設など、「地域との交流による未来作り」をテーマに、それを神社の役割と捉え「次の時代にも誇れる神社」の継承に努めておられる。秋祭りには、茂山千三郎さんによる奉納狂言、御殿山合唱団による発表会、カラオケなど多彩なイベントを企画し、地域と一体となって盛り上がっている。

【取材後の感想】

  1. 御殿山神社の歴史は140年余とさほど古い神社ではないが、その成り立ちを辿っていくと「土佐日記」、「伊勢物語」などとも繋がり、壮大な歴史絵巻に触れることができ、ロマンに満ちた取材でありました。図書館の資料や、教育委員会発行の冊子などにも掲載されていますが、先日タイミングよく「枚方の歴史」(松籟社 2000円)が発刊され現在店頭に並んでおります。ページを捲ってみると、渚院もしっかりと載っていました。
  2. 片岡宮司様は37歳とお若いが、専門のスキルを十二分に発揮され、神社の発展はもちろん、地域に密着した数々の活動や、特に子供達へのイベントを通して「次の世代への神社」をテーマにしておられることをお聞きし、頭の下がる思いでした。
  3. 御殿山駅からの急な上り坂は、参拝者にとっては厳しいものですが、登りきって新緑の中に入るとその爽やかさは格別であり、頂上からの眺めも最高で、遠い昔なぜここに陣屋を建てたのか解る気がしました。
  4. 枚方市の町名については日常深く考えることはありませんが、渚、小倉、禁野など、それぞれ古い歴史と共にあることを改めて認識することができました。

取材:金箱、中村、山添、坂本  レポータ:坂本

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