第11回 夢中人紹介 井上 一さん

”日本百名山登頂の感激を漢詩に託して”

枚方市山之上5丁目在住
2008年10月9日 取材

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1.取材訪問

 枚方市山之上の閑静な住宅地にある井上 一さん宅を訪問し、「日本百名山」の登攀と「漢詩」についてお聞きしました。最初に「日本百名山」の登攀と「漢詩」の関連性について質問しました。お答は登山の感激を記録に残すための手段として、漢詩を選んだということであり、また漢詩を作った時の喜びと、登頂した時の感激には共通性があるとのことでした。登山に結びついた漢詩という大変ユニークな趣味の持主であることが分かりました。

2. プロフィール

 1935年(昭和10年)12月生まれの現在72歳で、1955年(昭和30年)に当時の松下電器に入社し、本社経理部証券課に配属され、情報システムを担当、 その後も一貫して情報システム畑を歩かれ、最終は当時の松下電子部品の情報システム部門を1995年(平成7年)12月に定年退職されました。

3. 登山を始められた動機

 長い間慢性胃病を患い、この病からの脱出策を考え抜いた結果、「気持ちの良い汗」をかくことの重要性を知り、ハイキングや近隣の山々を登り、体力の増強に努めている内に、 山の自然の美しさや登った後の爽快さにより、ストレスが汗と共に解消され、以降は健康を取り戻すと同時に山の魅力に取り付かれる様になったとのことです。

4. 日本百名山(深田久弥氏選定)登頂の思い出

 登山は松下電器山岳会に所属し55歳から始め、本格的に取り組んだのは定年後からで、5~10月の期間を中心に2ヶ月に3回のペースで、約10年間掛かって日本百名山の登頂を達成されました。日本百名山は、北は北海道の離島「利尻岳」から、南は九州の離島「屋久島にそびえる宮ノ浦岳」の山々で、スタートは1974年(昭和49年)8月に、鳥取県「大山」に家族と共に登ったときでした。

  最終の百番目は「蔵王山」に2003年(平成15年)10月に奥様と共に登頂を果たされました。登頂された山々の一つ一つは暴風雨雪に遭遇しながら登攀されたこともあって、鮮明に記憶されているとのことです。その「感動と艱難辛苦」の思い出をメモにし、自宅で漢詩に編集し「百名山登攀漢詩集」に収めた時の喜びは、語り尽くせない格別のものであったとのことでした。

5.漢詩について

 井上さんは高校時代から漢文がお好きで、今日の漢詩の作りの素養が当時からあったと考えられます。漢詩は中国から伝来したものですが、今は日本の方が熱心に取り組んでいるとのことです。  ご本人は最初日本漢詩会の通信教育を一年間受講し、現在は広島県呉市の漢詩の会「楓社」に所属し、故・太刀掛呂山先生を師と仰ぎ、会員として「麗嶽」(れいがく)の雅号で投稿されています。 また地元枚方市で「青楓漢詩会」に所属し代表幹事を務められ、さらに交野市で漢詩教室「星嶺漢詩会」を主催するなどのご活躍をされておられます。

 2003年に日本百名山全てを踏破して以後は、海外の山に目を向けられアジア地区・ヨーロッパ・アフリカ等十数国で登山を遂行し、その地における登山の感激と、旅遊の感想を漢詩に綴っておられます。番外編としてその一部を紹介します。

  • ネパール  2002年10月~12月(21日間)カトマンズからアンナプルナ・ヒマラヤ嶺のベースキャンプまで登攀
  • マレーシア 2006年7月(5日間)キナバル登攀
  • アフリカ  2006年10月(15日間)ケニア共和国 キリマンジェロへの登攀(/li>
  • チベット  2007年10月(17日間)カトマンズ・チョモランマ プロスキーヤの三浦雄一郎氏にホテルで会い記念撮影
  • 旧満州 2008年5月(6日間)2回目の中国旅行

 

6.終わりに

 「今回は、百名山と漢詩が中心の取材となり、海外での登山については、次の機会があれば詳細に紹介したいと思います。健康の為に始めた登山とはいえ、その魅力に取り付かれ、漢詩の作成に情熱を傾け、両道の道を究められた 井上一氏に敬意を表したいと思います。 定年後は国内から海外に軸足を移され、長期間の海外旅行で出費も重なりながらも、ここまで登山と漢詩に集中できたのは、奥様の多大な理解と支援があったからだとのことです。 これからもお元気で、夫婦円満に登山と漢詩の道に進まれることをお祈り致しております。

<取材:鬼頭、梅原、田宮、大熊 HP作成:梅原 WP編集:吉川>

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