東高野街道と弘法大師伝説

東高野街道と弘法大師伝説

山田池南町・明尾寺の弘法大師像

S29年の東高野街道・出屋敷元町

 今回は出屋敷付近の東高野街道に残る伝説を、追ってみました。 
 弘法大師(空海)は、774 年に讃岐国(現在の香川県)に生まれました。2年間中国で真言密教(しんごんみっきょう)を学んだ後帰国し、弘仁7年(816年)に嵯峨天皇より高野山の地を賜って、真言密教の道場を開きました。その後東寺を与えられ、東寺と高野山を通う事となりその連絡路となったのが「高野街道」です。この道中、枚方市の八幡の洞ヶ峠から出屋敷・天野川・茄子作南町を経て星田に至る道が「東高野街道」と呼ばれています。

現在の東高野街道・出屋敷元町

 弘法大師は、天長元年(824年)の大飢饉の時、天皇に命じられて、中国で学んだ「講雨経法」という7日間の修法で雨乞いを行って成功し、高い僧階を与えられました。空海は水なき所に池を掘り、橋なき所に橋を架け、道なき所に道をつけ、食の貧しい者には食を得る方法を教え、病む者のためには良医となり、人々の苦しみを解決しようとしました。このことが世間に広まり、大師の行く先々に伝説が生まれました。枚方市の「東高野街道」沿いにも多くの伝説が残っています。
(以下昔話の内容は、市発行の記念誌や刊行物(文末に参考資料を記載)を参考にして作成致しました。)写真はクリックで拡大できます。

その1: 弘法大師が出屋敷を通りかかった時、長期の日照りで村中の井戸の水が干上がり、村人が大変困っていました。そこで大師は村中を一回りし、木立の繁った涼しい場所を見つけ、杖を突かれると、その場所からコンコンと清水が湧き出したと言う事です。現在田中井戸として写真のような井戸が民家の塀の中に残っています。写真を撮ろうとすると犬が吠えまくり大変な撮影でした。枚方市にはまだ2~3個の井戸があるそうですが、場所がわかりませんでした。

 弘法井戸は、東高野街道沿いの寝屋川市にも残っており、代表的な「湯屋が谷井戸」は、通称「ヤガタンのいど」とよばれて親しまれています。旧村落の東端の断崖の真下に位置し、崖の上の大地から湧き出る良質な地下水は、貴重な飲料水として、また日用水として広く利用されてきました。しかし、香里園駅から遠くないこの場所に辿り着くまでには、道が狭く入り組んでおり、数人の方に道を聞くなど困難な撮影でした。
 さらに寝屋川市打上の大きな薬局チェーンストアーの近くには、今も使用されている「弘法観念水」と呼ばれる井戸があり、今も新しい花が供えられ、柄杓も置いてあるなど、大切に保存されていると感じました。。

枚方市藤田町・蚊入らずの林

その2: 枚方市藤田町の南部生涯センターの近くに「蚊入らずの林」という場所があります。手を触れると災いがあると言われ、雑木の生えるままになっています。弘法大師がこの地を通過する時、一晩泊めてとお願いされたが、一軒も泊めてくれなかったので、やむなく林の中で野宿されました。翌日立ち去られた後、この場所だけ蚊がいなかったそうです。宿を貸してくれなかったこの地域は、かつて多くの家があったが、徐々に衰退し、昔「藤田千軒、今五軒」という歌があったそうです。

現在の枚方市大峰北町付近

その3: 弘法大師が出屋敷を通りかかった時、おいしそうな桃がなっていたので、一つ所望されましたが、虫がついているので食べられないと嘘をつかれて断られました。それ以来、この地では桃には虫がついて作れないと言う事です。また、大峰付近を通りかかった時、街道沿いの大根の葉に虫がたくさんついていました、そこで弘法大師が虫がつかないようにと、虫封じの祈祷をされて以来、この街道沿いの大根畑には虫がつかないそうです。

 現在まで残っているゆかりの場所を探し当て、撮影してきましたが、この街道沿いにはまだ多くの伝説が残っていると思います。その場所に行き着いて対面してみると、なんとなく懐かしい気分になります。しかし、その多くは住宅地に変貌し、残っているものも保存状態は良いとは言えず、それを語り継ぐ人も少なくなったことは、誠に残念に思いました。

過去に掲載した「枚方の民話」は、右のイラストをクリックしてご覧ください。
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以上

参考資料:
枚方市伝承文化保存懇話会発行「ひらかたの昔ばなし・総集編」
「枚方風土記」枚方市企画部企画調査室発行

HP作成:坂本 

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